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大宝律令(701年)に関東は含まれていなかった

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大宝律令制定前の関東地方とヤマト朝廷


大宝律令(701年)に関東は含まれていなかった(関東・東北の古代)

関東に前方後円墳など古墳の多いことは知られています。このため、関東地域は、前方後円墳中心地のヤマト朝廷の支配を古墳時代から受けていたという「前方後円体制」説があることは知られているところです。

この説は多くの歴史解説書で散見されますが、その説には古墳以外の証拠はなく、単なる憶測の説です。

一方、拙ブログでは、奈良時代以前は、関東はヤマト政権に支配されていなかったこと、かつ、北九州の倭国との関係をもっていたことを指摘してきました。詳しくは「関東の碑文入り鉄剣と装飾古墳のルーツは北九州倭国」を参照願います。

関連し、我が国最初の体系的統治法令と言われる大宝律令(701年発令)では関東はどのような扱いだったのかについて今回は愚考します。

まず、「【大宝律令とは】簡単にわかりやすく解説!!内容や制定した理由&人物・税制など」によれば次のとおりです。


大宝律令では)全国は畿内・七道の行政区に分けられました。
畿内は、天皇のいる奈良周辺の5つの国。現在でいうところの首都圏です。
大和国・山背国 (のち山城国)・摂津国・河内国・和泉国の5つの国に分けられ、五畿と呼ばれました。
畿内以外は、東山道・東海道・北陸道・山陰道・山陽道・南海道・西海道の七道に分けられました。
さらに、各国は、「郡(ぐん)」、「 里(り)」に細かく区分。イメージは、国が都道府県、郡や里は市や区といったかんじ。
国のトップは「国司」。中央(都)から派遣された貴族が務め、中央に納める税の徴収などを行いました。
郡のトップは「郡司」。国司が地元の豪族から選んで任命。里のトップは「里長」と呼ばれました。

(引用終了)

また、関東への道と言われる東山道と東海道については、Wikipediaによれば次のとおりです。

(東山道)
律令時代の東山道は、畿内と東山道諸国の国府を結ぶ幹線道路である駅路で[2]、律令時代に設けられた七道の中で中路とされた。畿内と陸奥国とを繋ぐ最短距離路としても重要だった[3]。ただし中路とされたのは近江・美濃・信濃・上野・下野・陸奥の各国国府を通る道である。陸奥国府・多賀城より北は小路であり、北上盆地内にあった鎮守府まで続いていた。東山道には、駅伝制により30里(約16 km)ごとに駅馬(はゆま)10頭を備えた駅家(うまや)が置かれていた。

飛騨・出羽は行政区画で東山道に区分されていたが、国府には幹線道路としての東山道は通っていなかった。飛騨へは美濃国府を過ぎた現在の岐阜市辺りから支路が分岐していた。また出羽国へは、小路とされた北陸道を日本海沿岸に沿って延ばし、出羽国府を経て秋田城まで続いていたと見られている。そのほか、多賀城に至る手前の東山道から分岐して出羽国府に至る支路もあったと見られている。

東山道の建設については誰が計画してそれを実行したかほとんどわかっていないが、断片的な記録として大宝2年(702年)12月10日『続日本紀』に、初めて「初めて美濃の国に岐蘇(きそ)の山道を開く」との記録がある[2]。

(東海道)

東海道は律令時代に設けられた五畿七道駅路の一つで[注釈 1]、中路である[2]。律令時代の東海道の道幅は、中世や江戸時代の道より広く、より直線的に建設された。
その一方で、当時は大河川に橋を架ける技術は発達しておらず、揖斐川・長良川・木曽川・大井川・安倍川・富士川・多摩川・利根川(当時)といった渡河が困難な大河の下流域を通過するため、むしろ東山道の山道の方が安全と考えられていた時期もあり、東海道が活発になるのは、渡河の仕組が整備された10世紀以降のことと考えられている[3]。

(引用終了)

また、関東・東北と関連し、蝦夷が多数居たと思われますが、蝦夷についてWikipediaによれば次のとおりです。

えみし、毛人・蝦夷の語源については、以下に紹介する様々な説が唱えられているものの、いずれも確たる証拠はないが、エミシ(愛瀰詩)の初見は神武東征記であり、神武天皇によって滅ぼされた畿内の先住勢力とされている。「蝦夷」表記の初出は、日本書紀の景行天皇条である。そこでは、武内宿禰が北陸及び東方諸国を視察して、「東の夷の中に、日高見国有り。その国の人、男女並に椎結け身を文けて、人となり勇みこわし。是をすべて蝦夷という。また土地沃壌えて広し、撃ちて取りつべし」と述べており、5世紀頃とされる景行期には、蝦夷が現在の東北地方だけではなく関東地方を含む広く東方にいたこと、蝦夷は「身を文けて」つまり、邪馬台国の人々と同じく、入れ墨(文身)をしていたことが分かっている。
(引用終了)

引用が長くなりましたが、以上の記事をまとめますと、次のようになります。

関東への道は、ほとんどが山の東山道を通る道と海沿いの東海道を通る道があるが、東山道は山の道を切り開き整備が始まったのが702年で、奈良時代以降、大和政権の関東支配が進むにつれ、道が整備されていったと思われます。一方、東海道は川が多く、多数の大河を渡ることは難儀で関東に到達するには東山道が確実だったことになります。

一方、中国の唐時代の歴史書の「旧唐書」によれば、北九州「倭国」に代って新しく朝貢を始めた大和政権について記述が有り、「その国の境界は東西南北とも数千里ある。西と南はそれぞれ大きな海が境界となり、東と北には大きな山があり境界となっている。その山の外側は毛人の国である」、と紹介されています。

関連し、最近のDNA研究(Y染色体ハプログループ分類)では、アイヌ系の割合は関東地域48%、関西地域27%であることが分かっています。詳しくは「関西人のDNAとルーツ」を参照願います。

以上の東山道と東海道の状況や蝦夷(毛人)の状況、さらには最近のDNA研究は、「旧唐書」の情報と一致します。すなわち、関東地域は蝦夷の多い地域で、行くための道路が整備されておらず、大和政権の本格的な関東支配は奈良時代以降になったと思われます。

まとめますと、関東地方が大和政権の支配を実質的に受けるようになったのは奈良時代以降と観るのが妥当と思われます。大宝律令制定前は、国史は派遣されておらず、ヤマト朝廷と関東豪族との関係は、主に交易だけの関係だったことになります。

すなわち、前方後方墳があるから関東地域は古墳時代からヤマト朝廷の支配下にあったという説がありますが、実態は交易だけだったというのが真相と思われます。


なお、関東以北の地域の前方後円墳古墳ですが、これらは朝鮮半島由来のツングース系民族がルーツと思われますが、ヤマト政権と直接の関係はないグループと思われます。詳しくは「前方後円墳のルーツはツングース系の方墳」を参照願います。

関連し、大宝律令前後の東山道・東海道と関東の様子を上トップに示しました。



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Posted byレインボー

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motomasaong
前方後円墳は大和朝廷支配の証拠にはならない

 古墳と言えば、もともと朝鮮半島で7500年前から始まっています。距離的な事を考えれば、大和朝廷も蝦夷も他の地域も、同じように朝鮮半島の影響があったはずです。
 日本の古墳の歴史はわずか西暦250年程度からですから1800年程度前からであるに過ぎません。
 無論、日本のある地域の王が権勢を誇るために古墳を作っていたのでしょうから、日本国内でも古墳の形態のブームはあった可能性がありますが、前方後円墳の普及イコール大和朝廷の支配という考えには無理があります。
 また、王侯貴族は朝鮮半島とも血縁関係がありましたから、大和朝廷の王と姻族や遠縁の朝鮮半島出身の人々が、前方後円墳を取り入れた可能性も否定できません。
 蝦夷や北九州その他の地域でも、朝鮮半島の古墳や国内での別の国家の前方後円墳を模倣する可能性もあります。
 現在、日本には中国や韓国の商品が大量に出回っています。今から数百年後に、日本のゴミ捨て場を発掘した歴史学者が、
「日本には中国・韓国製品が国中に普及していた。だから日本は中国・韓国の植民地だったに違いない」と言う学説を出したとしたら? そんな馬鹿な事はありませんから、前方後円墳の存在をもって大和朝廷の支配の根拠にするのは馬鹿げています。これまでそうしたことを指摘した学者は誰もいなかったのでしょうか?

  • 2021/03/22 (Mon) 11:09
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Re: motomasaong様、前方後円墳は大和朝廷支配の証拠にはならない

motomasaong様
いつも貴重なコメントありがとうございます。

「前方後円墳は大和朝廷支配の証拠にはならない」、ご指摘の通りです。

しかし、この説が、本当のことのように、多くの歴史解説書に紹介されている現状、
日本の古代史は戦前と変わっていなという現状が、ここにもあります。
草々

  • 2021/03/23 (Tue) 07:46
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