ヤマト朝廷による関東・東北支配は短期間に完了した

ヤマト朝廷による関東・東北支配は短期間に完了した(関東・東北の古代)
天皇中心の国家を目指した大化の改新(645年~)について、豪族の協力はわずかで、それは理想物語であったことを先に紹介しました。しかし、壬申の乱(673年)で勝利し、強大になった天武天皇が出現すると、豪族の力は弱まり、天皇中心の政治が可能になりました。
そこで、ヤマト朝廷の次の目標は、残された関東以北の蝦夷地域になりました。関連し、今回は、それがどのように進んだのか愚考します。
まず、奈良時代の以前のヤマト朝廷の蝦夷対策ですが、「北征(蝦夷支配)」によれば次のとおりです。
日本書記によれば、孝徳天皇の時代から斉明天皇にかけて、蝦夷支配が進められた。
大化3年(647)渟足柵(新潟市)、同4年には磐舟柵(村上市付近)が造られた。 これらの柵には、柵子と呼ばれた移民が置かれた。 皇極元年(642)には、越の蝦夷数千人が倭王朝の支配下にはいった。
これらの柵を起点に、三次の北征がなされた。
第一次は、斉明4年(658)4月、安部引田臣比羅夫、軍船180隻を率いて、蝦夷征伐に向かった。秋田・能代の二郡の蝦夷は、 この船団を見て降伏した。恩荷に官位を与え、秋田・能代の二郡の郡司に任命した。北海道の蝦夷を従えた。7月、蝦夷200人が飛鳥にやってきた。
第二次は、斉明5年(659)3月、安部臣、軍船180隻を率いて、蝦夷征伐に向かった。北海道の蝦夷を帰属させた。
第三次は、斉明6年(660)安部臣は服従した蝦夷の要請により、北海道の大河に至り、(中国大陸から)北海道にやってきていた粛慎と呼ばれる 異民族集団と交戦し、49人を捕虜にした。粛慎とは、中国大陸系統の人と言われている。日本書紀667年11月条に 「粛慎7人、(新羅の使者)清平等に従い至り」とある。
(引用終了)
以上の日本書紀の内容は、遣唐使が大型船2隻で行くのが精いっぱいだった時代から観ると、「(658年)軍船180隻を率いて、蝦夷征伐に向かった」とありますが、実証されておらず、真実かどうかは疑わしいところがあります。また、安部比羅夫の遠征が征服戦争のように日本書紀では描かれていますが、実際は交易に終わったのが実情と言われます。
そこで、日本書紀と遺跡研究などを総合しますと、大化の改新の始まった645年頃から、大和朝廷の領域拡大政策が始まり、まずは船で行きやすい北陸に向かい、647年に渟足柵(新潟市)、648年には磐舟柵(村上市付近)が造られた。さらには、658年からは安部比羅夫が、さらに北部の秋田、青森、北海道まで行き、支配地と言うよりは交易圏を広げた、のが真相と思われます。
そして、関東以北の宮城・岩手方面ですが、724年に宮城県に多賀城、801年には岩手県奥州市に胆沢城を建設しました。そして、抵抗していた蝦夷の英雄アテルイが802年に降伏しましたが、この頃、抵抗する者はなくなり、大和朝廷の東北支配がほぼ完成したのではないかと思われます。
なお、前方後円墳が多数あるから関東・東北地域は4世紀の古墳時代からヤマト朝廷の支配が及んでいたという説(前方後円墳体制説)がありますが、以上の経過から観ると、それはあり得ません。
これらの経過を上トップの表に示しました。

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