ヤマト朝廷はなぜ関東支配を簡単にできたのか

ヤマト朝廷はなぜ関東支配を簡単にできたのか(関東・東北の古代)
前回、大宝律令制定(701年)前は、ヤマト朝廷の支配は関東・東北地域に及んでいなかったことを検討しました。
そして、関東の奈良時代遺跡ですが、群馬県の上野国分寺(こうずけこくぶんじ)や神奈川県の相模国分寺(さがみこくぶんじ)が知られております。聖武天皇の詔を受け、いずれも天平13年(741年)の国分寺建立の詔の頃に創建されたと見られます。
この国分寺の例からも、奈良時代に入り、争いもなく、関東は大和朝廷の支配を受け入れたと思われます。
関連し、今回は、なぜヤマト朝廷は関東の支配を争いもなくできたのか愚考します。
その理由ですが、次の6点が考えられます。
① 大化の改新(645年)頃からヤマト朝廷との交易が盛んになってきたこと
② 壬申の乱の後、強大な天武天皇(在位:673-686年)が現れたこと
③ 郡司など役職が関東の地方豪族に与えられたこと
④ ヤマト朝廷と関東住民は同じ日本語を話すグループであったこと
⑤ 古墳時代に関東と関係のあった北九州倭国が滅びたこと
⑥ 関東には以前から大きな争いが無かったこと
まず、①の関東と関西の交易ですが、文献的には安部比羅夫の658年の遠征が最初と言われます。安部比羅夫の遠征が征服戦争のように日本書紀では描かれていますが、実際は交易に終わったと言われております。こうした交易があり、奈良時代の関東とヤマト朝廷の関係は友好的に進んでいったと思われます。
次に②強大な天武天皇の出現です。関東の王や豪族には、これまでのヤマト朝廷と戦ったことはありませんが、支配を求めてきたヤマト
朝廷(天武天皇)が強大であることを知ると、戦えない雰囲気があったと思われます。なお、関東の大王については「古墳時代の関東の中心地愚考」を参照願います。
次に③ 郡司など役職が関東の地方豪族に与えられたことですが、この処置で、関東の王を支えていた豪族の地位はより明確になり、不満はなかったと思われます。これらの結果、関東の王もヤマトの支配を受け入れたと思われます。
次に④ヤマト朝廷は同じ日本語を話すグループであったことですが、これは、同じ仲間が一緒になることですから、一般民衆から観ると重要であったと思われます。
すでに検討してきましたように、日本はアイヌ系が35%、マレー系が30%、朝鮮半島由来ツングース系が25%、その他10%います。それぞれ独自の言語をもっています。そして、関東はアイヌ系が50%近く居る地域です。おそらく、現代日本語に近い言葉が使われていたと思われます。
一方、ヤマト朝廷ですが、その大王(天皇)のルーツはアイヌ系であることが分かっています。すなわち、関東もヤマト朝廷も同じ仲間だったことになり、異民族の支配という雰囲気はなく、この方面でも戦う雰囲気は無かったものと思われます。なお、詳しくは「天皇家のルーツはアイヌ系の継体王」を参照願います。
次に⑤北九州倭国が滅びたことですが、倭国は日本の先進地域として関東にも影響があったことを指摘してきましたが、この倭国が滅びたことは、ヤマト朝廷に対抗する勢力が無くなったことを意味します。このことは関東の王にも影響があったと思われます。
最後に、⑥関東には大きな争いが無かったことですが、これも大きな要因であったと思われます。弥生時代の争いと関連し、環濠集落が西日本に多かったことが知られていますが、関東の環濠集落は僅かで平和であったことが伺えます。すなわち、関東の古代に争いごとはもともと少なく、ヤマト政権とあえて戦う雰囲気は無かったと思われます。
関連し、関東の弥生時代と争いについては「弥生稲作と戦いはリンクしているのか」を参照願います。
まとめますと、大宝律令頃から強大となったヤマト朝廷と戦う雰囲気は関東には無かったと思われます。そして、その雰囲気は、弥生時代から古墳時代にかけて関東と同じように歩んできた東北南部も同じだったと思われます。なお、この方面は「関東と東北の古墳建造時期は同じ」を参照願います。
これらの結果、ヤマト朝廷は、大きな争いもなく、東北支配の拠点と言われる宮城県の多賀城まで一気に駆け上ることができたと思われます。因みに、大宝律令制定は701年、多賀城創建は724年となっています。
参考までに、Wikipediaによれば、「多賀城」は次のとおりです。
奈良平城京の律令政府が蝦夷を支配するため、軍事拠点として松島丘陵の南東部分である塩釜丘陵上に設置した。平時は陸奥国を治める国府(役所)として機能した。創建は神亀元年(724)、按察使大野東人が築城したとされる。(引用終了)

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