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蝦夷の英雄アテルイはなぜ降伏したのか

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アテルイ降伏の経過


蝦夷の英雄アテルイはなぜ降伏したのか(関東・東北の古代)

歴史経過を観ますと、701年に大宝律令ができ、702年には東山道の道路整備が始まっています。その後、100年後の801年には岩手県奥州市に胆沢城が建設され、蝦夷の英雄アテルイが802年に降伏し、蝦夷の抵抗がほぼ終わったと言われます。

以上の経過から、ヤマト朝廷の関東および東北地域の支配は100年で完了したことになります。また、前回、関東地域がヤマト朝廷の支配下に入った理由について検討しました。関連し、今回は、蝦夷の英雄アテルイの降伏を事例に、東北地域の抵抗も弱かったことについて検討します。

まず、ヤマト朝廷は、724年に東北支配の拠点として宮城県塩釜丘陵上に多賀城を創建しました。次いで、801年には北東北支配の根拠地として岩手県の入り口にある奥州市に胆沢城を建設しました。

大宝律令制定は701年、宮城県に多賀城を創建が724年ですので、これまで23年という速さです。

この速さの理由ですが、先に紹介しましたが、安部比羅夫の658年の遠征がありました。安部比羅夫の遠征が征服戦争のように日本書紀では描かれていますが、実際は交易に終わったのが実情と言われています。こうした交易があり、関東と大和の関係は友好的に進んだものと思われます。

また、拙ブログでは「関東と東北の古墳建造時期は同じ」で関東と東北南部は繋がっていたこと、例えば、関東地域と東北南部は水田稲作の発展は同時に進み、前方後円墳の建造時期もほぼ同じであったことを検討しました。すなわち、関東と東北南部は同地域だったため、ヤマト朝廷の東北南部進出は関東と同時に進んだと観ることができます。

しかし、その後、岩手県の井沢城建設801年で77年かかっています。この理由として、岩手県は畑作地帯で水田稲作は無くヤマト朝廷の律令国家方針に合わなかったことが考えられます。

なお、岩手県以北の水田稲作については後程検討しますが、寒冷地稲作を可能にする移植技術が始まった平安時代中期頃から水田稲作が始まったと拙ブログでは観ています。

以上のことから、奈良時代、岩手以北は寒冷地で、畑作中心の集落ばかりでした。このため、ヤマト朝廷の租庸調の租税(コメ)は徴収できない地域でした。言い換えると、これらの地域は、貧しい地域でもあり、魅力のない地域だったことになります。そして、無理に支配し、税を取り上げるとなると、抵抗が大きくなったと観ることができます。

この抵抗で最大の事件は789年の巣伏の戦い(すぶしのたたかい、すぶせのたたかい)でした。朝廷軍が1061人の死者を出すという大事件でした。

一方、蝦夷の胆沢地域の様子ですが、Wikipedia(巣伏の戦い)によれば、次のようです。


胆沢の蝦夷の損害[編集]

巣伏の戦いでの胆沢の蝦夷軍の人的被害は不明である[6]。『続日本紀』によると朝廷軍は「十四村、宅八百許烟」を焼き討ちしているが[原 3]、宅八百許烟は竪穴住居800棟を指すものと考えられ、当時の胆沢地方の平均的な規模の竪穴住居は床面積20平方メートル前後であったと考えられているため、1棟に4~5人が住居したと仮定すると3200~4000人ほどが住み家を失った計算になる[9]。
奥州市水沢にある杉の堂・熊之堂遺跡群は奈良時代後期のものとみられる竪穴住居で、発掘調査により一時に火災で焼亡していたことが推測されている[9]。火災痕跡の年代観や、巣伏の戦いでの朝廷軍の進軍ルートとの一致から、朝廷軍による焼き討ちに遭った可能性が指摘されている[9]。

胆沢の蝦夷にとって巣伏の戦いでは勝利を収めたともいえるが、14ヶ村800戸が焼き討ちされているため決して微々たる損害ではなかった[10]。
(引用終了)

以上のことから、巣伏の戦いにおける蝦夷の損害は「14ヶ村800戸が焼き討ち」というたいへんなもので、これらの結果、蝦夷は抵抗を止め、降伏します。有名な「802年の蝦夷の英雄アテルイの降伏」です。

なぜアテルイの降伏したのか、まとめますと次の3点かと思われます。

① 抵抗したのは侵略されたためで侵略がなければ戦う必要はない。すなわち、朝廷方の坂上田村麻呂の侵略しないという和睦条件に従う。
② ヤマト朝廷は強く、戦っても無駄である。
③ もともと同じ日本人どうしである。


まず、①の坂上田村麻呂の和睦条件ですが、彼が多賀城に派遣されたのは多くの死者を出した巣伏の戦いの後です。彼の任務は、関東と同じように平和裏に大和朝廷の支配を進めることであったと思われます。このため、侵略的姿勢や行為は改め、和睦を優先させたと思われます。

Wikipedia資料には、アテルイには名字があり、これはヤマト朝廷から授与されたと言われています。また、坂上田村麻呂は人徳があったと言われます。すなわち、こうした人間関係からアテルイは、無益な争いはさけ降伏したのだと思われます。

坂上田村麻呂はアテルイを許すよう朝廷に嘆願したと言われます。しかし、死刑という残念な結果になったのは有名な話です。

次に②のヤマト朝廷は強いということですが、それは東北にも知れ渡っており、関東と同じように和睦を進める雰囲気を作ったと思われます。

また、③の同じ日本人どうしというのも、無益な争いをさける雰囲気を作ったと思われます。

当時、東北にはアイヌ系が多かったと思われますが、蝦夷と言われた北東北の人たちもアイヌ系です。また、朝廷方の多くの兵士は関東中心の部隊であり、アイヌ系です。同じ民族であり、初めから争う雰囲気は無かったのが実情と思われます。

なお、関東にアイヌ系が多いということは日本書紀にも書いてありますが、詳しくは「日本人のルーツは、アイヌ、マレー、ツングースの混血」を参照願います。

まとめますと、北東北のヤマト支配は、関東と比較すると、朝廷方に侵略的行為があり少し時間がかかりましたが、坂上田村麻呂の人徳のある和睦行為で対立は無くなり、アテルイの抵抗を除けば大きな労もなく進んだと言うのが真相と思われます。

関連し、蝦夷の英雄アテルイの降伏の経過を上トップの表に示しました。



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Posted byレインボー

Comments 2

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motomasaong
奇跡的な和睦だったと思います。

 世界史上では、同じ母親から生まれた兄弟であろうとも、権力や土地問題、覇権争いなどで殺し合いをするのは普通の事でした。
 また、蹂躙された国が加害国に報復して皆殺しにする事など珍しくもありません。

 ネイティブ・アメリカンが、圧倒的に不利な条件下で最後まで抵抗し続けたのは有名です。

 14カ村が焼き討ちにされ、800戸もの家が焼かれ、当然、多数の犠牲者も出たと思いますし、朝廷側も1061人もの死者を出しているのですから、朝廷側の死者の家族などは報復を考えても決しておかしくないと思います。蝦夷側だって報復を考えた者もいたでしょうに。
 
 現在のイスラエルとパレスティナが良い例ですが、虐殺と怨恨、報復の連鎖で未来永劫、和睦など見込めない状態です。

 阿弖流為は死刑になっていますし、阿弖流為が死んだ後、北海道のアイヌが受けたような虐殺やひどい扱いを蝦夷の人々は受けなかったのでしょうか?

  • 2021/04/11 (Sun) 20:34
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レインボー
レインボー
Re: motomasaong様、 奇跡的な和睦だったと思います。

motomasaong 様
いつも貴重なコメントありがとうございます。

ご質問の「阿弖流為が死んだ後、北海道のアイヌが受けたような虐殺やひどい扱いを蝦夷の人々は受けなかったのでしょうか?」ですが、そのような記録が残っていなかったことから推察しますと、そのような差別は無かったと思われます。

私は、東北生まれ育ちましたが、部落差別みたいなものは残っていません。おそらく、蝦夷と言われますが、東北はすべてが蝦夷で、同じ日本人だったと思われます。違いは畑作農民か水田作農民かの違いにすぎなかったのではないかと思われます。この方面はさらに検討予定です。

  • 2021/04/12 (Mon) 07:04
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