蝦夷の地域はあったのか愚考

蝦夷の地域はあったのか愚考(古代史の問題)
前回、蝦夷(えみし)と呼ばれた北東北の地域が短期間で大和朝廷の支配下に入ったことを紹介しました。この理由として、蝦夷も普通の日本人仲間同士であり、戦う必要のない地域であったことが考えられます。その意味で、蝦夷と呼ばれた人々や、蝦夷という異国のような地域はあったのかが問題となります。
一方、東北地域にも前方後円墳があることに関し、古墳時代、大和朝廷の支配は東北地域まで及んでいたという前方後円墳体制説があり、この説を多くの書籍が支持しておりますが、この説が正しいのかも問題となります。
関連し、今回は、「蝦夷の地域はあったのか」について愚考します。
まず、関連する見解として、「古墳時代から飛鳥・奈良時代に かけての東北地方日本海側の様相」(藤沢 敦 2013) という論文報告があります。内容(一部)は、次のとおりです。
古墳時代から飛鳥・奈良時代に かけての東北地方日本海側の様相[論文要旨]
文献史料の検討による蝦夷の領域と,考古資料に見られる文化の違いは,ほとんど対応しない。日本海側 では,蝦夷の領域と推測される,山形県域のほぼ全て,福島県会津盆地,新潟県域の東半部は,古墳文化が 広がっていた地域である。両者には,あきらかな「ずれ」が存在し,それは太平洋側より大きい。この事実 は,考古資料の分布に見える文化の違いと人間集団の違いに関する考えを,根本的に見直すことを要求して いる。排他的な文化的同一性が先に存在するのではなく,ある「違い」をとりあげることで,「彼ら」と「わ れわれ」の境界が形成されると考えるべきである。これらの検討を踏まえるならば,律令国家による「蝦夷」 という名付けは,境界創出のための他者認識であったと考えられる。(引用終了)
この報告をまとめますと、「律令国家による「蝦夷」 という名付けは,境界創出のための他者認識であったと考えられる」がポイントになります。そして、この指摘は当たっていると思われます。
すなわち、大宝律令制定(701年)後、ヤマト朝廷は、関東、東北支配に入るわけですが、このとき、東北地域を、野蛮な人の居る地域としての蝦夷の地域と分類したに過ぎないと思われます。
しかし、実際に蝦夷と呼ばれた地域に入ってみますと、特に、福島、宮城、山形ですが、古墳時代があり、同じように日本語を話すグループであった、というのが真相と思われます。
そして、このことは、古代の歴史認識として、次の2点が重要になると思われます。
① ヤマト朝廷は、大宝律令制定(701年)以前の認識として、関東、東北は遠く離れた地域にあり、道も整備されておらず、これらの地域の詳細は知らなかった。特に東北のことは知らなかった。
② 前方後円墳は大和朝廷の支配の象徴という前方後円墳体制説があり、多くの書物で本当のことのように紹介されています。しかし、その説でいくと、東北の多数の前方後円墳地域もヤマト朝廷支配地域となり、律令体制で、東北を蝦夷地域と呼ぶ必要性はなくなります。すなわち、東北地域が律令体制以前からヤマト朝廷の支配をうけていたという本説は事実と合いません。
関連し、東北の前方後円墳については「関東と東北の古墳建造時期は同じ」を参照願います。
なお、Wikipediaによれば、「蝦夷」の意味は次のとおりです。
蝦夷(えみし、えびす、えぞ)は、大和朝廷から続く歴代の中央政権から見て、日本列島の東方(現在の関東地方と東北地方)や、北方(現在の北海道地方)などに住む人々の呼称である。 中央政権の支配地域が広がるにつれ、この言葉が指し示す人々および地理的範囲は変化した。近世以降は、北海道・樺太・千島列島・カムチャツカ半島南部にまたがる地域の先住民族で、アイヌ語を母語とするアイヌを指す。 大きく、「エミシ、エビス(愛瀰詩、毛人、蝦夷)」と「エゾ(蝦夷)」という2つの呼称に大別される。(引用終了)
関連し、上トップに、蝦夷地域について示しました。

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