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田植えの始まりは平安時代中期と思われる

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レインボー

田植えを支えた自由農民の発生(10世紀)


田植えの始まりは平安時代中期と思われる(稲と鉄)

ヤマト朝廷の日本統一に関し、これまで平安時代中期の蝦夷の英雄アテルイの降伏まで見てきました。この頃、東北は低温のため水田稲作は東北南部までしか普及していません。アテルイの地域は東北北部に当たり、貧困な畑作地帯だったと推察されます。

ところが、田植え稲作が普及すると、稲作は東北北部まで可能になり、その結果、平泉黄金文化時代が始まるなど、東北北部は急速に変わっていきます。

関連し、今回は、田植え稲作がいつ頃始まったのか愚考します。

まず、日本の水田稲作ですが、中国南部の江南地方から移住してきた越族によって3000年前頃に北九州で始まったと見られています。拙ブログでは、越族は、最近のDNA研究(Y染色体ハプログループ分類)からマレー系民族であったと見ています。

そして、その水田跡は畑作雑草が多いことから、漏水の多い乾田直播であったと推察されています。

乾田直播という方式は、水の無い畑に播種し、芽が出たところで後に水を入れる培様式です。

一般に、稲が発芽し10㎝ぐらいになったところで水を入れますが、このとき、当時の水田は畑状態(乾田)であったため漏水が多く、冷水を何度も入れていたと推察されます。この結果、特に春は水が温まりませんので稲の生育が遅れます。また、根の発達も悪く、栄養吸収も劣り、良好な生育は困難です。この結果、収量は著しく低かったと推察されます。

このため、乾田直播栽培が適した地域は、漏水の少ない低地、具体的には低地や内陸盆地の底辺だけとなります。詳しくは「台地になぜ水田稲作が普及しなかったのか」を参照願います。

そこで、田植え技術の優秀性に言及しますと、乾田直播と比べ、稲が生育し易い条件と思われます。

移植栽培には、田植えをできるようにするため、水と土を混ぜてこねる代掻きという作業があります。この代掻きは重労働ですが、畑状態であった水田を泥で固めるため、漏水が少なくなります。

このため、田植え後、溜まった水が温まりやすく、こうした条件を好む稲の生育がダントツに良くなります。特に、漏水の多い中山間地や低温がネックとなっている東北地域で効果を発します。

以上のことから、田植えは、従来の漏水が多いという乾田直播の弱点を変えた画期的稲作技術で、砂地以外はどこでも活用できる技術でもあります。

そこで、この田植え(移植栽培)がいつから始まったかですが、古文書では平安時代に書かれた「栄華物語」に最初に現れます。

Wikipediaによれば、次の通りです。

平安時代に書かれた『栄花物語』には田植えの風景として歌い躍る「田楽」が描かれており、大江匡房の『洛陽田楽記』によれば、永長元年(1096年)には「永長の大田楽」と呼ばれるほど京都の人々が田楽に熱狂し、貴族たちがその様子を天皇にみせたという。(引用終了)

おそらく、田植えが田楽で演じられるのは、田植えという技術が新しく、かつ稲の多収技術として流行したためと思われます。

一方、田植えには、代掻きと田植えという重労働の問題があります。この重労働を考えると、乾田直播栽培に慣れてきた律令体制下の農民には困難なことです。

そこで、その重労働を誰が担ったのか検討しますと、当時の律令制度から離れていた高地性集落の畑作農民がいます。

高地性集落の人々は山間地で畑作をしていた人々が大半ですが、拙ブログでは、古墳時代になっても高地の遺跡数は弥生時から変わらないことを東京遺跡から検討しました。

詳しくは「弥生時代に東京は畑作の方が多かった」を参照願います。

高地性集落農民を支えた畑作というのは、栄養が水田のようには水で運ばれてきませんので連作はできず、休耕が必要になります。しかし、休耕しても畑が肥沃になるには年数がかかり、貧しいままです。

そして、高地性集落が、平安時代中期に崩壊していくのが知られていますが、その原因は田植えに動員された結果ではないかと思われます。

当時の律令社会では租庸調税を払うことが求められています。おそらく、こうした人々が、税(庸)として代掻きや田植えに動員され、かつ、その過程で低地に定住するようになり、高地の集落は崩壊していったのではないかと思われます。

なお、高地性集落の崩壊については「なぜ10世紀に古代集落が台地から消えたのか」を参照願います。

一方、律令社会の重税に苦しみ、逃げ出した農民も多く知られています。こうした人々は、新しくできた荘園の中に逃げ込み豪族の庇護を受けたとも言われます。これらの人々も代掻きや田植えに動員されたことは確実と思われます。

まとめますと、平安時代後期の「栄花物語」の「田楽」田植え踊りから察しますと、田植えは平安時代中期おそらく10世紀頃に始まり、そのなかの代掻きと田植えという重労働は、高地性集落の人々や荘園に逃げ込んだ自由農民が担ったと推察されます。

関連し、高地性集落民と自由農民と田植えの関係を上トップ図に示しました。



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motomasaong
エジプトはナイルの賜物、水田は粘土と河川の賜物?

 古代エジプトの繁栄が、上流から肥沃な土を運んで定期的に氾濫したナイルによる小麦栽培にあった事は有名です。
 日本でも同じことが起きていたのですね。
 畑作だと、肥料が川から供給されませんが、河川の流域の低地に田んぼを造れば、水を引く事で森の養分を田に供給できる上、稲は連作障害を起こしません。
 なお、私の父に聞いた事ですが、鈴鹿山脈系のような花崗岩の山岳地帯では、土地が砂質なのですが、その場合、粘土を取ってきて田や畑に入れると、粘土はコロイド粒子で吸着作用があるため、水と養分を吸着し、良質な田畑が出来るとのことです。
 粘土は、陶土が取れる場所ならどこにでもありますし、特に関西は粘土質です。粘土は長石が風化すると得られますから、日本の大地の内、長石や粘土が分布している地方の場合、仮に山間部でも水田が開発できた可能性が高いと思います。
 河川は下流域になればなるほど、順に、石、砂、泥、粘土が増えますから、河川の下流地帯で水田が増えたのは当然ですが、山間部の水田の普及については、その土地の成分が長石や陶土、粘土質かどうかが影響した可能性を考えます。
 宮沢賢治先生が地元の地質調査を実施していますが、当時でも既に、日本は火山灰で出来ている地域が多く、土地が酸性で農耕に向いていないという認識がありました。た彼の恩師が石灰で中和すると言う技術を普及させています。ただし、稲は酸性土壌にも比較的強いですから、その点でも水田普及に有利に働いたのでしょう。
 水田の普及の歴史と、その地域が長石、粘土、陶土が多いという可能性について研究されたデータはないのでしょうか? 
 

  • 2021/04/27 (Tue) 16:01
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レインボー
レインボー
Re: motomasaong様、エジプトはナイルの賜物

motomasaong様
本質に迫るコメント、ありがとうございます。

ご指摘の「エジプトはナイルの賜物」ですが、水田稲作も同じ原理で毎年収穫ができます。

「水田の普及の歴史と、その地域が長石、粘土、陶土が多いという可能性について研究されたデータ」ですが、
いくつかの大学には「農業立地学」という講座があり、研究されています。

水田については、漏水が少ない粘土質の沖積土良いことが分かっています。漏水の多い砂地以外はどこでもOKという感じでしょうか。
草々

  • 2021/04/28 (Wed) 07:38
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