人口増加曲線から田植えは平安時代中期に始まったとみられる
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レインボー

人口増加曲線から田植えは平安時代中期に始まったとみられる(稲と鉄)
前回、田植え(移植栽培)は平安時代中期に始まったことを検討しました。田植えは稲増収技術ですので、水田稲作導入時と同じように、人口増大が予想されます。
そこで、今回は、田植え技術により平安時代中期以降に人口が増えたのか検討します。
まず、データですが、「近代以前の日本の人口統計」がWikipediaに出ております。
5例の人口推定値が紹介されていますが、前回指摘のとおり田植え時期を「栄花物語」の時期(平安時代)としますと、田植え開始は800年~1100年頃が予想されます。
5例のうち、社会工学研究所(1974年)とFarris(2006,2009年)のデータは800年以前のデータが1個と少なく、平安時代の人口変動を検討するにはデータが少ない問題があります。そこで、残りの3例について人口変動曲線を図示しますと、上の図のとおりです。
この図では、鬼頭宏(1996)の赤色曲線とBiraden(1993,2005)の緑色曲線はほぼ同じです。そして、両者とも1600年頃、異常な人口増加が認められますが、1600年頃というのは戦国時代終わりの時期で、このような人口増加は不自然です。
次に、最後のMcEvedy & Jones (1978年)の人口データですが、上記のような異常なデータは無く最も自然な感じがします。
そこで、McEvedy & Jones (1978年)の人口データを用い、平安時代前後について詳しく見ますと下図のとおりです。

この図では、0年~800年に増加が認められ、これは水田稲作導入と面積の増加によるものと推察されます。
次いで、800年~1000年に停滞します。これは、生産を刺激するものが無い律令社会の停滞を意味するものと思われます。律令社会というのは公地公民制で、民衆は土地に縛られ、税金を納めるだけの社会で、停滞はやむを得なかったと思われます。
次に1000年以降に、より大きな増加が認められます。まさに、これが田植えの効果と思われます。田植えにより収量増加が認められるだけでなく、それに係る人が増え、自力で開発した荘園(水田)を守るために武士が登場し、律令制度が壊れていく様子が読み取れます。
また、東北では、移植栽培技術により稲作適地が増え、人口が急速に増えていく時代でもあり、社会発展とマッチしています。
関連し、McEvedy & Jones (1978年)の人口推定から、200年ごとの古代の人口増加をまとめますと下表の通りです。200年ごとの効果ですが、田植え開始前の増加は2.00~2.33倍で、水田稲作導入と面積拡大の効果と思われます。一方、田植え開始後の人口増大は1.67~1.76倍で、田植えの効果の大きかったことが分かります。

以上のことから、McEvedy & Jones (1978年)の人口推定は、矛盾の少ない、歴史の流れに沿ったものであり、妥当と思われます。
まとめますと、平安時代の人口は、McEvedy & Jones (1978年)によれば1000年当たりから急速な人口増加が認められます。これは、移植栽培という多収技術導入効果と思われますが、さらには、寒冷地でも稲作が可能になり、稲作面積が増えた結果と推察されます。
そして、前回報告を加味して結論しますと、移植栽培技術は、900年頃始まり、100年後の1000年から本格的に普及したと見るのが妥当と思われます。

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