田植え開始と武士の出現関係愚考

田植え開始と武士の出現関係愚考(稲と鉄)
前回、稲移植栽培(田植え)は、田植え前に水と土を混ぜるという代搔き(しろかき)作業があるため、漏水が少なくなり、この結果、水が温まり、稲の成長が早まる多収技術であること、それは平安時代中期頃(900年頃)に始まったことを指摘しました。
また、その増収効果は、人口増大からみると、200年当たり1.7倍近くあったことを人口増大曲線から推察し、その効果が大きかったことを推察しました。
一方、田植えという移植栽培が始まった平安時代中期というのは、中央集権の律令国家体制が壊れ、地方に武士が出現し、武士勢力が拡大していく時代でもあります。例えば、関東で起こった「平将門の乱」(939年)は、武士発生の始まりと言われます。
関連し、「平将門の乱」を事例に、武士の発生と田植え技術の関係について今回は愚考します。
まず、その舞台となった荘園ですが、【荘園制とは】によれば次の通りです。
(わかりやすく解説!!日本史における意味や歴史(起源・崩壊)など)
①(省略)
②律令国家の形成
645年大化の改新をきっかけにし、豪族の力を抑え権力を集中させた国家の形成が進められていきます。
土地・人は公地公民として国家が直接支配するものとし、各地には「国」を置き、都から国司が派遣され、地方の豪族を郡司として指揮し、地方政治を行います。
701年大宝律令の制定で律令体制が完成され、その決まりに基づき戸籍が作成されました。
そして登録された6歳以上の人々に身分に応じた土地(口分田)が支給され、死後は返却することになります。これが班田収授法ですが、人々には口分田の面積に応じた租税他、様々な税(庸調など)が課せられたのです。
③税収の確保
その後、人口の増加や重い税負担による農民の逃亡で、口分田が不足し、税収も減少してしまいます。多くの農民が、口分田を所持してなければ課税もないということで、土地を捨てていたわけですね。
政府は税収増加を図るべく、723年三世一身法を制定し、新規開墾を行った人、その子と孫の代までの耕地の所有を認めます。
さらに743年墾田永年私財法によって新規開墾地の永久私有まで法律で認めてしまうのです。
④私有地の拡大
この法律を利用したのが、貴族や寺院でした。
公地公民の下、最初から彼らに対しては、元々の私有地の所有を認め、税免除もあり、さらに高い給料や多くの土地も与えておりました。まさに特権階級で余裕も十分にあったのです。
そこで、周りの農民や逃亡した農民などを使い大規模な土地開墾を推し進め、私有地を広げていったのです。これが、「荘園」の始まりで、このころの荘園を初期荘園(墾田地系荘園)といいます。
(引用終了)
引用が長くなりましたが、まとめますと、平安時代中期になると、土地や人民は国家(天皇)に属するという公地公民制(律令社会)の維持が困難となり、発展は停滞したが、私有地としての荘園(水田)が認められと、地方の国司や郡司などの役人が荘園を競って開墾した、という感じでしょうか。
そして、稲移植栽培の効果で紹介しましたように、その開墾した水田には、田植え技術が導入され、従来と異なり確実な収穫があり、水田を持てば富の蓄積が容易にできるようになった時代と思われます。すなわち、水田はたいへん価値あるものとなりました。
そして、平将門ですが、Wikipediaによれば次の通りです。
平 将門(たいら の まさかど、-將門)は、平安時代中期の関東の豪族。 平氏の姓を授けられた高望王の三男平良将の子。 下総国、常陸国に広がった平氏一族の抗争から、やがては関東諸国を巻き込む争いへと進み、その際に国府を襲撃して印鑰を奪い、京都の朝廷 朱雀天皇に対抗して「新皇」を自称し、東国の独立を標榜したことによって、遂には朝敵となる。(引用終了)
その生涯を見ますと、若いときに京の都に行き、官位を得ようとしたが失敗した。失意のうちに実家に帰ると、父は亡くなっており、自分の家の水田は叔父に奪われていた。そこで、新たに開墾を行い、新田を開発したが、その水田も叔父たちに狙われ、一族の争いに発展していった。
しかし、武力に優れた平将門は、叔父たちとのその争いに勝ち抜き、その結果、負けた叔父たちは平将門を中央に訴えたが、その争いは一族のもめごとと判断され、罰は受けなかった。その後、地域のもめごとの仲裁も行うなど地域のリーダーになっていったが、最後は時の権力と対立し、滅ぼされた、という感じでしょうか。
以上の状況を、稲移植栽培普及後の水田(荘園=私有地)との関連で観ますと、水田は高い価値があり、それを開墾した地方の豪族は、それを守るためには武力が必要であった。そして、その武力を公的なものとするため、中央(京の都)の官僚の後ろ盾が必要となり、それをできる者が武士の頭領になっていった、という感じでしょうか。
関連し、当時、律令制度の重税の苦しむ農民の逃亡、および、高地性集落の崩壊というものが知られております。移植技術には代掻きと田植えとう重労働がかかりますが、この問題は、これら自由民を荘園が抱え込むことで解決したことを先に検討しました。そして、彼ら自由民は、荘園における水田稲作栽培の担い手であり、かつ警護者(武士)になっていったと思われます。
まとめますと、移植栽培という新たな増収技術が、水田の価値を高め、さらに、新たに始まった私有地制度(荘園制度)は新水田開発意欲を高め、さらには、その水田を守るために武士が出現したと結論されます。
まさに、移植栽培技術は、停滞していた平安時代(中世社会)を変え、武士の登場という新たな近世社会の扉を開いた感じがします。
関連し、稲移植栽培技術と武士登場の関係を上トップ図に示しました。

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