田植え技術は東北を変えた

田植え技術は東北を変えた(関東・東北の古代)
前回、田植え(稲移植栽培)は平安中期(900年頃)に始まったことを指摘しました。そして、この稲移植栽培は、代掻きによる漏水防止があるため水が温まり、春の寒い時期の稲の生育を大幅に改善することも紹介しました。
このため、移植栽培は、水が冷たく稲の生育が抑制されてきた地域、すなわち、東北や中山間地域の稲作を可能にしました。
そこで、今回は、東北、特に北東北(青森、秋田、岩手)の稲作はこの移植栽培の導入により平安中期から始まったことについて愚考します。
なお、東北の最初の水田跡としては、青森県の「砂沢遺跡」(2500年前)と「垂柳遺跡」(2200年前)が知られておりますが、これらの稲作は広がらずに終わりました。このことから、北東北における本格的な水田稲作は平安時代中期の移植栽培と共に始まったと判断されます。
なお、青森の弥生時代稲作遺跡についは、「東北における水田稲作普及は冷涼気候のため遅れた」を参照願います。
我が国における初期の稲栽培は、乾田直播栽培方式、すなわち、畑状態のところに播種し、芽が出てきたところで水を入れる方式であったことを検討してきました。しかし、この方式ですと、水の冷たい東北では稲の生育が遅れることが知られております。
すなわち、当時の栽培技術では、稲栽培は山形、宮城が限界であったことになります。この区分は、実際、前方後円墳という大型の古墳が実在する地域と一致し、稲栽培で豊かになり、その結果、古墳建造が可能になったと思われます。
一方、「東北の稲研究」(編集代表:赤間芳洋 1996)という書籍が「東北農業試験場稲作研究100年記念事業会」から出版されています(上記写真参照)。そこに、東北地域が日本の主要稲作地帯になった技術的経過が紹介されています。
また、拙ブログで初期の稲作方式は乾田直播栽培と指摘してきましたが、その方式が本著では低コスト稲作技術として研究されてきたことも紹介されています。
この直播栽培を熱心に研究したのが東北では福島県でした。しかし、低温による生育停滞、かつ、雑草多発の問題があり、従来の移植栽培の収量を超えることはできなかった、と結論されています。
このことは、また、当時の乾田直播栽培は、福島では可能で、宮城、山形辺りが北限だったこと、そして、移植栽培技術によって稲栽培可能地が北東北まで広がったことを示します。
関連し、私は秋田の地(大仙地域)で稲の試験研究をしたことがありますが、そこで乾田直播栽培と移植栽培の比較を見たことがあります。乾田直播栽培では、苗立ちは可能ですが、漏水多く水持ちが悪いため、冷水と寒風の影響で稲の生育は遅れ、穂の出る時期は著しく遅れ、実らず終わったことを経験しています。
また、私は、低コスト稲作技術の乾田直播栽培を関東で研究したことがありますが、関東の5月播種の普通期稲作方式では、稲は順調に育ち、冷温の影響はないことも経験しました。
しかし、乾田直播栽培は漏水や雑草が問題でした。雑草は除草剤で解決しましたが、漏水問題は決定的で、さらには関連して地力低下問題も明らかになりました。すなわち、初年目は移植と同じく多収でしたが、地力低下と関連し年々低収になっていく問題が残りました。
以上の結果、乾田直播栽培は、低コストであるが、漏水だけでなく地力低下もあり、移植よりも低収という結論になりました。
関連し、このことは、古代稲作においても、移植栽培は東北だけでなく西日本でも増収効果があったことを示すものと思われます。
まとめますと、移植栽培は、移植前の代掻きによる漏水防止による保温効果が大きく、これまで稲作が困難だった青森、秋田、岩手の北東北3県の稲作を可能にしました。この結果、東北の全地域が平安時代中期以降、発展するようになったと思われます。
余談ですが、この時期、小野小町という美女が秋田に現れますが、なぜこの時期なのか不思議に思っておりました。しかし、これは、田植え稲作が広がり、北東北も豊かになってきたことを示すエピソードとして捉えれば不思議でありません。

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