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田植えは東北北部にも争いの古代史を作った

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レインボー

東北北部への田植え導入と武士の発生・戦乱経過


田植えは東北北部にも争いの古代史を作った(関東・東北の古代)

前回、平安時代中期(10世紀頃)、田植え(移植栽培)の普及により東北北部でも稲作が可能になり、人口が増え、豊かになってきたことを紹介しました。そして、平安時代後期となると、岩手県南部の平泉に藤原三代による黄金文化が栄え、このことが、マルコポーロによって黄金の国ジャパンと紹介されるようになったとも言われます。

この黄金文化の前に、豪族と中央貴族を巻き込んだ土地(水田)争いが東北北部でも発生しました。いわゆる「前九年の役」(岩手県:1051)と「後三年の役」(秋田県:1083年)です。

今回は、これらを事例に、東北北部の古代は、稲の移植栽培導入によって争いの場に変わったことを愚考します。

移植技術が普及する前の東北では、熱帯作物の稲が生育するためには冷水・冷温が問題で、稲栽培北限は山形、宮城まででした。このため、東北北部(青森、秋田、岩手)地域では雑穀(畑作)栽培が行われていました。

先にも述べましたが、畑作では1度作ると土地が痩せ、土地が肥えるまで休耕が必要となります。一方、水田稲作は、森から水が栄養を運んでくれますので連作ができるというたいへん有用なシステムです。このため、畑作地帯は、水田作地帯と比較し貧しく、人口は少なく経過しました。

しかし、田植え技術が導入されますと、困難だった東北北部でも稲作が可能になり、人口が増えました。また、水田は富の蓄積の基となり、奪い合いという争いが、他の地域と同じように起きてきました。

このため、関東の「平将門の乱」(939年)と同じように水田を守るための武士が現れました。詳しくは「田植え開始と武士の出現関係愚考」を参照願います。

そして、そうした武士登場を背景に、前九年の役と後三年の役が起きたと推察されます。それは、まさに新しく開発された水田領地争いでした。そして、そこで運良く勝ち残った者が東北に黄金文化を築いた藤原清衡でした。

なぜ藤原清衡が勝者となったのかは、経過が複雑で一言では言えませんが、次のような感じかと思われます。

前九年の役では、岩手の豪族の安部氏が、1051年に独立を目指し反乱を起こしました、しかし、京の政府は認めず、源頼義を大将に派遣し、秋田の蝦夷豪族の清原家の助けを得て、12年の戦いの後、安部家を滅ぼしました(1062年)。

この結果、勝者の源頼義は出羽守に、また源氏を助けた清原武則は鎮守府将軍になり、安倍氏に代わって、東北地方で大きな勢いを奮うようになったと言われます。

このとき、負けた側に藤原経清(黄金文化を築いた清衡の父)が居て、経清は殺されましたが、残された妻は幼少だった藤原清衡を連れ子にし、清原家に嫁ぎ、生き延びることができました。

続いて、清原家に内紛が起こりました(1083年)。そして、この内乱に乗じて勝者となったのは源頼義の長男の義家で、清原家を滅ぼしました。しかし、その争いは身内の領地争いとし、京政府は義家に清原家の領地の支配を認めませんでした。

そこで、北東北の支配者となったのが、清原家に居た藤原清衡でした。おそらく、源義家は武力があり、それを恐れた京政府は、土地勘のある藤原清衡に岩手と秋田の地を与え、義家に対抗させたものと思われます。

いずれにせよ、岩手の豪族の安部家、秋田の豪族の清原氏が滅び、中央とのパイプがあった藤原氏が最後に残った経過は、乱を起こした者は滅ぶという、平将門の乱に似たところがあった感じがします。

そして、後に奥州藤原は源頼朝によって滅ぼされましたが、その理由には北の憂いを取り除くという鎌倉幕府の表向きの理由だけでなく、後三年の役の勝者であったにもかかわらず報償を奥州藤原家に奪われた源家の怨念があったことが感じられます。

まとめますと、奥州藤原三代は、金山を開発し、平泉(岩手県)に黄金の金色堂を残したことで有名です。しかし、その前に、東北北部では、稲移植栽培の導入と水田面積拡大で富と人口が増え、次いで水田を守るための武士が登場したことが歴史上重要と思われます。

関連し、稲移植栽培導入から武士が登場した東北の歴史的経過を上トップに示しました。


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Posted byレインボー

Comments 2

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motomasaong
大和朝廷の巧妙な戦略ですね。

 源氏が強大になり過ぎないように、後三年の役では報酬を与えなかった。同時に報酬を藤原氏に与える事によって、北部の朝廷よりの勢力として源家を牽制させた。当然、御指摘通り、もらえるべき報酬をもらえなかった源氏の怨恨は藤原氏に向かい、最終的には源氏に藤原氏は滅ぼされた。
 ただ、源氏の怨恨が朝廷に向かい、藤原氏と組んで反乱を起こすという結果には何故ならなかったのでしょうか?

  • 2021/05/23 (Sun) 22:19
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レインボー
レインボー
Re: motomasaong様、大和朝廷の巧妙な戦略ですね。

motomasaong様
いつも貴重なコメント、ありがとうございます。

ご指摘の「源氏の怨恨が朝廷に向かい、藤原氏と組んで反乱を起こすという結果には何故ならなかったのでしょうか?」、
ですが、その時、奥州藤原家は朝廷側でしたので、武士社会を目指した源頼朝にとって、奥州藤原家も同じ敵だったことになります。
草々

  • 2021/05/24 (Mon) 11:11
  • REPLY