倭国の大乱で人口は変動したのか

倭国の大乱で人口は変動したのか(古代史の問題)
邪馬台国の女王「卑弥呼」登場の前に倭国の大乱があったことが知られています。その時代の北九州の人骨に負傷者が多数発見されていることから、その大乱は激しい戦いであったことが想像されています。
その激しい争いの原因は、水田土地争いに加え、多数派の稲作民族(マレー系)を少数派の朝鮮半島由来ツングース系が支配していた問題、すなわち民族対立が背景にあったと拙ブログでは推測しています。詳しくは「倭国の大乱の原因は民族対立だった」を参照願います。
その大乱の結果、邪馬台国では人口増大に影響があったことが想像されます。関連し、今回は、「倭国の大乱で人口は変動したのか」について、北九州と大和地域を比較してみたいと思います。
方法は、邪馬台国候補地の畿内(奈良、三重、大阪、滋賀、京都)と北九州(福岡県、佐賀県)の古代人口の変動比較です。古代人口は、県別古代遺跡数を基に推定しましたが、具体的な方法は「古代王国の人口と稲作開始時期」を参照願います。
まず、県別の古代遺跡数を上表に示しました。
続いて、この表を基に畿内と北九州の古代人口を推定し、下表に示しました。

続いて、この人口を基に、古代の人口変動を下図に示しました。

倭国の大乱の時期を200年前後としますと、それ以降の人口変動に大きな違いが認められます。すなわち、北九州は人口増大が少なく、一方、畿内は人口増大が大きく経過しました。
この違いから、倭国の大乱は北九州で発生し、その大乱の結果、人口増大が抑制されたと推察されます。
そして、その後の倭国ですが、朝鮮半島で、マレー系稲作民族の仲間の「百済」と連合し、北の大国の高句麗と戦い、国は疲弊し、その後も人口はあまり増大しなかったと拙ブログでは見ています。なお、高句麗との戦いついては「空白の時代があったのか」を参照願います。
以上のことから、倭国の大乱は北九州で発生したことが古代人口の経過からも裏付けられたと思われます。
なお、関連し、邪馬台国所在地論争ですが、邪馬台国は北九州にあったことが99%以上の確率で証明されています。その意味で、本記事は、ダメ押しになります。詳しくは「誤りと偽りの考古学・纏向」を参照願います。

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