「コロナに人類が打ち勝った証」愚考

「コロナに人類が打ち勝った証」愚考(縄文思想と日本人)
今回のオリンピックは、「コロナに人類が打ち勝った証」にしたいと首相を初め、多くのリーダーが語っています。
この言葉について、「日本人の言葉ではない」と違和感を感じる方も見られます。
関連し、今回は、この言葉「コロナに人類が打ち勝った証」は日本人の思考様式ではないことについて愚考します。
まず、関連記事として、ブログ仲間の「まん丸、メジャーへの道 6」さんの記事「勝ち負けじゃない」を紹介しますと次のとおりです。
菅首相はよく東京オリンピック・パラリンピック開催は、コロナに人類が打ち勝った証と、おっしゃいますねぇ。
でもね、私、最近特になんですけど、この言い方・捉え方には違和感しかないんですよねぇ。
コロナはある種の自然現象だと思うんですけど、その自然相手に、勝ち・負けという価値観って存在するんでしょうかねぇ。
勝ち・負けっていうのは、自分とは違う別の存在に対する一つの価値観みたいなもんでしょ。
つまりですね、「自然に対して勝ち負け」には「人類は自然とは別に存在するモノ」っていう意識が無意識にあるわけですよ。
人類って大自然の一部ですよね?まさか、人類は特別な存在だ、その力で大自然をコントロールし、自然にも勝てるなんていうたいそうなこと考えているんじゃないでしょうかねぇ。・・・考えてるな、おそらく。
人類は特別な存在であり、もしそれを自然が妨害するなら勝負を挑んで屈服させてやる! ってね、そりゃあ 人類よ、お前は神か?!ってこと。
ま、ご自分を森羅万象担当だと言う首相はいらっしゃいましたけどねぇ。(苦笑) でもね、そんなの思い上がり、驕り以外のナニモノでもない、身の程知らずもいいところ。
こういう甚だしい勘違いをしているから「五輪中止=コロナに負けた」という考えにしか至らないんですよ。
もっと自然に対して謙虚にならないと。
コロナを含むあらゆる自然現象に対して人類がそれを受け入れながらささやかな抵抗を試みて、それで五輪が開催できるならば「ああ、開催できてよかったね」だろうし、もしどうやっても開催できなければ「残念だったね」でいいんですよ。
自然に対しては勝ち負けじゃない。自然は戦う相手ではなく、人類はその一員なんですから。自然に敬意を払い、謙虚に、感謝しながら、他の一員の方々や環境に迷惑をかけないように注意しながら、その大きな力の恩恵を、必要な時にちょっとだけ頂戴させていただく。
これが人類のあるべき姿なんだと思いますよ。・・・(引用終了)
この記事をまとめますと、日本人なら「もっと自然に対して謙虚にならないと」に尽きると思われます。
拙ブログでは、この記事とほぼ同じ思考様式を日本人は持っていることを指摘してきました。そして、この日本人の思考様式のルーツは、縄文時代から育まれてきた縄文思想、言い換えますと、自然との共生思想であることを指摘してきました。
この日本人の思考様式が最初に現れたのが、聖徳太子の「17条の憲法」と思われます。そこには、儒教、仏教の教えが多く散りばめられていますが、最初の第1条は「和の精神の重視」で、まさに自然との共生と関連した日本的精神があります。詳しくは「聖徳太子の17条の憲法と縄文思想」を参照願います。
また、例えば、「なぜ山に登るのか?」と問われ、西洋人登山家は「そこに山があるから」と答え、一方、日本人登山家は「山に親しむため」と答えた、という有名なエピソードがあります。
そこで、オリンピックに対する日本のリーダーの言葉「コロナに人類が打ち勝った証」ですが、明らかに日本の思考様式から離れております。日本の思考様式には長所も短所もあることを指摘してきましたが、オリンピックが日本で開催されるという観点に立てば、開催の意義を日本的な言葉で表現すべきであったと思われます。
関連し、「日本人と欧米人の自然観」について、上トップに示しました。
また、下の写真は、自然との共生を重視した我が無農薬菜園の様子で、実の着き始めたナワシロイチゴ、実り始めた地這いキューリです。無農薬栽培のせいか、地這いキューリは美味しいと評判です(笑)。
なお、このような日本人の自然観や思考様式に関心のある方は、拙ブログ左側にありますカテゴリから「縄文思想と日本人」を選びクリックしますと今までの記事を読むことができます。



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