学研まんが「NEW日本の歴史」、鉄剣碑文はワカタケルと読めない問題

学研まんが「NEW日本の歴史」、鉄剣碑文はワカタケルと読めない問題(古代史の虚像と書籍)
小学生向き「学研まんが」新版の「NEW日本の歴史」(2012)が出ております。前回は、「倭の五王はヤマトの王でない問題」について検討しました。
今回は、「埼玉県出土の鉄剣碑文はワカタケルと読めない問題」について検討します。
新版では、「6.ヤマト王権の広がり」で、「ヤマト王権の大王、「ワカタケル大王」の名がきざまれた剣が、埼玉県の稲荷山古墳や熊本県の江田船山古墳から出土したことから、ヤマト王権の支配の範囲の広さが想像できます。」とあります。関連し、上トップに鉄剣文字の入った`本書の記事を示しました。
しかし、この鉄剣文字「獲加多支鹵」が本当に「ワカタケル」と読めるのかが問題です。ある万葉文字の専門家によれば、「ワカタケル」と読めないとあります。敢えて読めば「エカタシロ」または「エッカタシロ」となるようです。きちんとした専門家の検討が必要です。詳しくは「稲荷山古墳出土鉄剣の万葉仮名愚考」を参照願います。
また、本書で「ワカタケル」と呼ばれているのは雄略天皇のようです。記紀に彼は幼少の時「幼武」と呼ばれていたのでワカタケルは雄略天皇だとしていますが、大王になったときにも「ワカタケル」と呼ばれていた訳ではありません。鉄剣碑文ですので、正式な名称があるべきで、本書の説明はこじつけ解釈と思われます。
さらに、雄略天皇については、記紀に名前があるだけで、実在を証明するものは何もありません。また、大和朝廷が関東地域を支配し始めたのは、日本書紀にあるとおり、阿倍比羅夫の北征が始まった658年以降で、鉄剣碑文が作成された時代(5世紀)ではありません。詳しくは「ヤマト朝廷による関東・東北支配は短期間に完了した」を参照願います。
一方、拙ブログでは、同様な鉄剣碑文が熊本県の古墳でも発見されていることから、「エカタシロ大王」は当時5世紀の偉大な大王、すなわち、中国の南朝の歴史書にも記載されている北九州の「倭王武」と指摘してきました。「倭王武」は、中国南朝の宋から「使持節 都督倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事 安東大将軍 倭王」となったことが認められ、偉大な大王であったと判断されます。
そこで「エカタシロ大王」は、どのような意味になるかですが、北九州倭国はマレー系の稲作民族の国ですので、使われていた言語はマレー語だったとしますと、「慈悲深い大王」の意味になります。詳しくは「エカタシロ(ワカタケル)大王の意味」を参照願います。
次に、なぜ埼玉県古墳出土の鉄剣に倭王武が紹介されているのか疑問が残ります。そこで調べますと、倭王武が関東に来ていたことが常陸国風土記に記載されております。この流れから見ると、北九州の倭王武が隣の碑文入り鉄剣が出土した埼玉でも知られた存在であったことは言うまでもありません。詳しくは「北九州の倭王「武」は関東に来ていた」を参照願います。
関連し、倭王武の偉業が何故日本書紀に記されていないかを推察しますと、理由は簡単です。彼は北九州倭国の王であり、天皇(大王)は万世一系としている日本書紀の方針に適合しません。このため、倭王武は日本書紀で無視されたと思われます。
また、最近出版されベストセラーになった「日本国紀」(百田尚樹著 2019)ですが、そこでは、倭王武を含む倭の五王はヤマトの王ではないと記述しています。
まとめますと、埼玉県出土の鉄剣碑文に記されたエカタシロ大王は北九州倭国の倭王武とするのが妥当と思われます。しかし、彼は北九州倭国の王であり、万世一系の天皇家があったとする日本書紀の方針に合わず無視されたものと思われます。
もし倭王武が学研まんが指摘のように雄略天皇であったとすると、なぜ、その偉業が日本書紀に掲載されなかったのか、鉄剣碑文に正式名が使われなかったのか等、矛盾だらけになります。こうした矛盾だらけの事柄を学研まんがは紹介していることになります。
次回は、「ヤマト王権の始まりはいつから」について愚考します。

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