学研まんが「NEW日本の歴史」、ヤマト王権支配地域の問題

学研まんが「NEW日本の歴史」、ヤマト王権支配地域の問題(古代史の虚像と書籍)
小学生向き「学研まんが」「NEW日本の歴史」(2012)が出ております。前回は、「鉄剣碑文はワカタケルと読めない問題」について検討しました。
今回は、「ヤマト王権支配地域」の問題について検討します。
前回の続きになりますが、「NEW日本の歴史」では、「6.ヤマト王権の広がり」で、「ヤマト王権支配地域が、4世紀には北九州を含む西日本全域から、6世紀には東北南部まで広がっていた」とあります(上トップ図と下図参照)。

この証拠として、「ヤマト王権による支配の証拠のひとつは、前方後円墳です」とあります。これは前方後円墳体制と呼ばれる説ですが、このことを証明するためには、前方後円墳建造にはヤマト王権の許可があったという証拠が必要です。しかし、その証拠はありません。
「日本古代史つれづれブログ」の「古墳は語る(18)~「前方後円墳体制は」なかった!?」では、「1.数、分布 2.築造の時代推移 3.祖型、4.規模 からみる限り、「前方後円墳体制」なるものがあったことを立証しうるデータはない」とし、データに基づき解説しています。
さらに、関東・東北南部の事例ですが、確かに前方後円墳が多数みとめられます。しかし、ヤマト朝廷が関東・東北南部を6世紀に支配していた証拠はありません。例えば、本書指摘のように6世紀以前にヤマト朝廷の支配が進んでいたとすると、日本書紀にある関東東北支配のための阿倍比羅夫の北征(658年)は必要なく矛盾します。
詳しくは「ヤマト朝廷による関東・東北支配は短期間に完了した」を参照願います。
また、6世紀の時代は、拙ブログでは、継体王(在位:507-531年)が巨大古墳建造のツングース系王家を滅ぼした時代と見ていますが、継体王(ヤマト朝廷)に関東・東北南部を支配する余裕は無かった時代です。その意味で、関東・東北支配は阿倍比羅夫の北征658年(7世紀)に始まったと観るのが妥当と思われます。
以上のことから、関東・東北南部の前方後円墳はヤマト朝廷とは関係なく建造されたと結論されます。
一方、韓国西南部にも前方後円墳がありますが、ヤマト朝廷との関係はこの地域はさらに不明で、ここもヤマト朝廷の支配下にあった証拠はありません。詳しくは「朝鮮半島の前方後円墳と倭王「武」の関係」を参照願います。
まとめますと、前方後円墳があるから、そこはヤマト政権支配地だとは言えません。このような荒唐無稽な証拠の無い説が小学生向け歴史解説書「NEW日本の歴史」(2012)に載せられていることには、いかんともしがたい焦燥感を感じます。まさに、日本の古代史は戦前と変わっていません。

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