田植えの始まりは弥生時代ではない

田植えの始まりは弥生時代ではない(古代史の虚像と書籍)
「大迫力!写真と絵でわかる日本史」(2013年 橋場日月)という一般向け書籍が出ています。前回は日本稲品種ルーツの問題点を検討しました。
今回は稲移植(田植え)の始まりについて検討します。
まず、本書では上図のように、弥生時代から移植栽培稲作が始まったとしています。
しかし、拙ブログで何度も検討してきたことですが、このことも事実と異なっています。
まず、移植には、その前に耕起し、水を入れ、水と土をこね合わせる(代掻き)という重労働が必要になります。しかし、そのような作業は弥生時代には無かったことが分かっています。
まず、日本の古代水田の特徴の解明については、那須浩郎(2014)の調査が優れています。彼は、畔あのある水田跡の雑草生態を調べ、その場所には水田雑草が無く畑雑草ばかりであったこと、すなわち、畑地状態であったことを明らかにしています。これは、水を入れて貯めた後、漏水のため水持ちが悪く、水田は畑地のような状況であったことを示します。
このことは、田植えのための代掻きが無かったことを示します。もし、代掻きがあったとすれば、水田表面は、土がドロドロになり目つまりし、漏水が少なくなり乾きにくくなり、畑雑草の育つ余地は少なかったと思われます。詳しくは「台地になぜ水田稲作が普及しなかったのか」を参照願います。
また、移植のような株跡が古代水田にあったという報告もあります。これは、掘り棒で穴を空け、その穴に播種するという播種方式をとったためと思われます。この方式は原始農法の一種で、今でもアフリカ農民の陸稲栽培で一般に認められる方法です。
また、田植えの時に着けられたような足跡が古代水田にのこされていたという報告もあります。しかし、一般に、田植え時の足跡は土がドロドロのため足穴しか残らないのが普通です。
当時は畑状態の水田に播種し芽が出たところで水を入れるという乾田直播栽培でした。おそらく、この足跡は水を入れた後に土が湿り柔らかくなったときにできたものと推察されます。その意味で、この足跡は、当時は代掻きはなく、田植えも無かったこと示す事例と思われます。
拙ブログでは、田植えは、代掻きにより漏水を防ぎ、水を貯め、水温を高くし、確実に増収する画期的技術であったことを指摘しています。この結果、水田の価値は高くなり、この水田を守るため武士が発生したと見ています。詳しくは「田植えの始まりは平安時代中期と思われる」を参照願います。
以上のことから、我が国の水田稲作は、乾田直播に始まり、平安時代になって移植栽培が始まり、現在の水田と同じようになっていったと判断されます。
なお、日本でも、水田稲作以前に陸稲栽培があったことが分かっています。詳しくは「縄文時代の稲栽培は天水畑で行われた」を参照願います。
まとめますと、日本の水田稲作は、乾田直播に始まり、その後、平安時代に移植技術が入り、その技術は漏水を防ぎ、水を温める技術であり、北東北でも稲作が可能になったと判断されます。
詳しくは「田植え技術は東北を変えた」を参照願います。

日本史ランキング