DNA研究は日本古代史王権のルーツを明らかにした

DNA研究は日本古代史王権のルーツを明らかにした(天皇家のルーツと日本文化)
最近のDNA研究(Y染色体ハプログループ分類)は我が国の歴史の闇を明らかにしつつあります。
特に、Y染色体ハプログループ分類ですが、Y染色体は大きなDNAのセットであり、このDNAのセットを使い、人類を細かく正確に分類できるようになりました。また、その染色体は男系から男系に引き継がれる関係から、その男系祖先のY染色体まで分かってしまうものです。
その分類から、日本人は、アイヌ系が35%、マレー系が30%、モンゴル系と中国系の混合混血のツングース系が25%、その他が10%であることが分かりました。詳しくは「最近のY染色体DNA情報と従来知見の修正」を参照願います。
そして、我が国古代史関係で最大の発見は、多数の男系子孫の調査から、天皇家のルーツ系はアイヌ系であることが明らかになり、そのルーツは継体王(在位:507-531年)であることが分かったことと思われます。詳しくは「天皇家のルーツはアイヌ系の継体王」を参照願います。
この研究結果は否定できない歴史的事実であります。因みに、この事実に合わない従来説に、天皇家のルーツは朝鮮半島(ツングース系説)がありますが、この説は否定されたことになります。また、現天皇家は北九州倭国が東遷し築いた王朝(東遷説)も同じく否定されたことになります。
そして、これらDNA情報から日本の古代は次のようであったと拙ブログでは観ています。
まず、日本の弥生時代を作った主要民族は、朝鮮半島から鉄器を持ち込み、水田稲作を広げたツングース系民族でした。彼らは、縄文人の少なかった近畿地方で発展し、ツングース系王家を奈良に作り、朝鮮半島由来の方墳をもとに仁徳天皇陵など大規模古墳を多数建造しました。しかし、それらの建造はアイヌ系等民衆の抵抗に合い、ツングース系王家は滅ぼされました。そして新たな王権を築いたのはアイヌ系の継体王(在位:507-531年)で、その王権が現在も天皇家として続いていることになります。
この判断(説)なら、最近のDNA研究と矛盾しません。
さらに、DNA研究が明らかにしたことに藤原家のルーツがあります。
藤原家は、もと中臣鎌足であり、中大兄皇子と組んで大豪族の蘇我家を滅ぼし(645年 乙巳の変)、天皇中心の政治(大化の改新)を行なおうとしたことで知られております。
その後、中大兄皇子はその後に天智天皇となり、中臣鎌足は、その天皇の傍女を妻にしました。そして、妻はそのときすでに身ごもっていたため、その子(後の藤原不比等)は天智天皇の子供であろうと見られてきました。
このため、長らく天皇家がルーツだと思われてきた藤原家のルーツでしたが、残されたミイラと子孫のY染色体ハプログループ分類から天皇アイヌ系でなくマレー系Aであることが判明しました。すなわち、中臣鎌足は天皇の傍女と密かに付き合い身ごもらせてから嫁にしたと結論されます。
マレー系には縄文時代から居た海洋系マレー系Aと北九州に水田稲作を持ち込んだマレー系Bという二つの集団がありますが、ここで興味深いことは、藤原家はマレー系Aという縄文時代から居たグループだったことです。
すなわち、藤原家は、アイヌ系と同じ縄文時代からの民族で、乙巳の変で中大兄皇子に協力した豪族であったことから想像しますと、アイヌ系の継体王が巨大なツングース系王家と戦ったとき、同じ縄文系の仲間として協力したことが推察されます。詳しくは「藤原家のルーツはマレー系A愚考」を参照願います。
言い換えますと、天皇家は縄文由来のアイヌ系であり、中臣家は縄文由来のマレー系だったということになり、現天皇家がツングース系王家を滅ぼしたとき、同じ縄文系として天皇家とは協力関係にあったことを想像させます。
なお、関連し、中臣家と同じく当時から有力豪族であった蘇我家や物部家のルーツも解明されると、天皇家と当時の豪族の関係も分かってきます。拙ブログでは、蘇我家は天皇家と同じくマレー系の豪族でツングース系と共同して戦ったグループで、このため継体王のときから関係していたと観ています。
さらに、DNA研究で分かったことに、朝鮮半島の先住民族ツングース系のルーツがあります。20年前になりますが、当時、ツングース系のルーツについては謎が多く、南方由来説や北方由来説があり、不明でした。しかし、DNA研究は、ツングース系は満州(中国東北部)辺りで発生したモンゴル系と中国系の混合混血集団であることを明らかにしました。
ツングース系は、言語はモンゴル系、生業は北方畑作と鹿狩りで、中国系とモンゴル系の特徴がルーツから理解できます。
なお、関連し、畿内におけるツングース系王家の発生滅亡およびアイヌ系王家の発生経過を上トップ図に示しました。

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