倭王武はなぜ評価されていないのか
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レインボー

倭王武はなぜ評価されていないのか(記事まとめ)
日本の国家の成り立ちについて検討してきました。そして、北九州にあった倭国に倭王武が現れ、朝鮮半島南部も支配するような大きな国家を5世紀に作ったことを何度か紹介してきました。
しかし、倭王武については、日本書紀に記載されていないこともあり、扱いが小さい感じがします。
関連し、今回は、倭王武について、「倭王武はなぜ評価されていないのか」について記事まとめをします。
まず、倭王武ですが、Wikipediaの『宋書』列伝によれば次のとおりです。
夷蛮伝 倭国の条(宋書倭国伝)では、兄の興が死んで弟の武が王に立ち、武は「使持節 都督倭・百済・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓七国諸軍事 安東大将軍 倭国王」と自称したとする[2][3]。
また順帝の昇明2年(478年)には、武は宋に遣使して上表文を奉り、これに対して順帝は武を「使持節 都督倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事 安東大将軍 倭王」に除すことを詔したとする[2][3]。(引用終了)
引用記事を要約しますと、倭王武は、都督倭(倭国)、新羅、任那、加羅、秦韓、慕韓の六国を支配する王「安東大将軍 倭王」になることを、宋の順帝から478年に認められました。秦韓、慕韓の国については場所がはっきりしませんが、新羅と加羅の近くにあった朝鮮半島内陸部の国のようです。
また、この倭王武の支配地域に百済が入っていません。これは、倭国と百済は同じマレー系の兄弟国として協力していた関係があったためと思われます。詳しくは「百済はマレー系海洋系民族の国であった」を参照願います。
そして、倭王武は、もともとは百済の王子であり、百済と倭国が協力するため倭国に派遣された関係があり、任務を終え、北九州倭国から百済に戻り、百済の部寧王になったという説がありますが、それは史実に近いと思われます。因みに、百済の部寧王は大百済時代の中心人物で、その王墓からは多数の国宝級宝物が出土したことで有名です。
一方、倭国(北九州)における倭王武の王墓は不明で、おそらく、その説「倭王武=部寧王」を正しいとすると王墓は朝鮮半島にあることになります。詳しくは「倭王武は百済の武寧王になった」を参照願います。
なお、北九州倭国について、何度も述べてきましたように、日本の正史と言われる日本書紀に記載されていません。そして、中国の歴史書(宋)にある倭の五王は、大和朝廷の王であり、それぞれの倭の五王に同時代の大和朝廷の天皇を強引に当てはめている報告もあります。
しかし、近刊の「日本国紀」(2018 百田尚樹)は、それらの名前は日本書紀にもないこと、倭の五王の名前と天皇名が一致しないことから、従来の説は「こじつけ」で、ヤマト朝廷の王でないと述べています。
そこで、日本書紀は、この大王を何故記載しなかったのかという疑問が残ります。おそらく、日本書紀には、天皇家は万世一系という編纂方針があり、これに合わない北九州倭国の存在は認められないということだと思われます。すなわち、倭の五王を認めると、北九州にあった倭国を認めざるを得なくなり、日本国は万世一系ではなくなります。
まとめますと、北九州倭国に、朝鮮半島南部をも支配する大王の倭王武が現れましたが、日本書紀の編集方針に合わないため無視されたと推察されます。このことからも、日本書紀は創作の書(フィクション)であったと思われます。
関連し、5世紀の倭国と大和朝廷(当時はツングース系王朝時代)の支配地域について上トップに示しました。

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