日本書紀と空白の4世紀の関係愚考

日本書紀と空白の4世紀の関係愚考(日本書紀は創作)
日本の古代史では、1~2世紀に倭の奴国王などの小国分離時代、3世紀に邪馬台国時代、5世紀は北九州では倭の五王、一方、畿内では巨大古墳建造時代、6世紀は継体王(在位:507-531年)時代が知られています。そして、4世紀は、日本(倭国)のことは中国の歴史書から消え、空白時代とも言われます。
今回は、この空白の時代と言われる4世紀の古代史を、日本書紀との関連で愚考します。
まず、関連の歴史経過表を地域別に上トップに示しました。
そして、空白の4世紀ですが、朝鮮半島南部では百済と新羅が建国されています。
一方、倭国については、高句麗の広開土王碑文があり、4世紀末に倭国が百済と連合し高句麗と戦ったとあります。百済と倭国は中国南部の越族に由来する稲作民族のマレー系の国、百済と倭国が連合するのは同じ民族の絆があったためと思われます。詳しくは「古代の朝鮮半島の民族と国家」を参照願います。
また、畿内のヤマト政権ですが、4世紀、この国に関する情報は、巨大古墳建造以外、まったくありません。古代遺跡発掘情報では、3世紀に作られた200mを超える巨大古墳(前方後円墳)の纏向遺跡があり、4世紀には多数の巨大古墳が建造されています。
おそらく、その古墳の形状から、それらの巨大古墳は朝鮮半島由来のツングース系の王家が作ったものと思われます。詳しくは「前方後円墳のルーツはツングース系の方墳」を参照願います。
そして、5世紀には奈良にあった王家は拡大し、中心地を海岸近くの大阪に移動し、さらに大きい巨大古墳を建造しました。いわゆる仁徳天皇陵(全長486m)です。これは、面積で世界最大規模、国家的事業と思われます。これには、縄文系由来のアイヌ系やマレー系の人々が多数動員されたものと推察されます。
古墳建造に動員された多数のアイヌ系やマレー系の人々は、これに怒り、ツングース系王家を滅ぼしたと推察されます。この中心人物はアイヌ系の継体王(在位:507-531年)で、この王家は現天皇家であることが、最近のDNA研究(Y染色体ハプログループ分類で明らかになりました。
おそらく、ツングース系王家が滅ぼされたとき、その戦いは、巨大古墳建造への憎しみだけでなく民族の違いも重なり、憎しみは大きく、ツングース系王家の宮殿や歴史は完璧に破壊されたのではないかと思われます。
その結果、巨大古墳建造時代の4世紀と5世紀に残ったものはツングース系王家の巨大古墳だけとなりました。このとき、偶然にも、ツングース系王家というものは、諸外国との交易もなく、諸外国の歴史にも残らなかった、すなわち、空白の時代となったと推察されます。
しかし、このことは日本の正史と言われる日本書紀には書いてありません。日本書紀には、現天皇家は万世一系という編集方針があり、ツングース系王家があったことは北九州倭国と同じように無視しています。
まとめますと、空白の時代と言われる4世紀、北九州には倭国、畿内にはツングース系王家ありました。しかし、それらの歴史については日本書紀では無視しています。その理由は簡単で、日本書紀は、現天皇家は万世一系であるという方針で書かれており、それに適合しない北九州倭国とツングース系王家については無視したと判断されます。
これらのことからも、日本書紀は歴史的事実を無視した創作の書(フイクション)であると結論されます。

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