巨大古墳建造の真相と民衆の怒り

巨大古墳建造の真相と民衆の怒り(記事まとめ)
前回、朝鮮半島由来ツングース系王家が、いくつもの巨大古墳を建造した結果、民衆の怒りをかい、アイヌ系の継体王(在位:507-531年)によって滅ぼされたことを検討してきました。
関連し、今回は、それら巨大古墳が建造された地域(府県)と時代について検討し、民衆の怒りがどのようなものであったか愚考します。
まず、Wikipedia「日本の大規模古墳一覧」によりますと、墳長120m以上の大古墳数と地域は下表の通りです。

大古墳は府県で見ると、奈良に27%、大阪に22%とこれら2府県に偏っています。特に200mを超える巨大古墳は37基ありますが、奈良と大阪の2府県で32基(86%)、関西では35基(95%)となっており、関西特に奈良と大阪に集中しております。
次に半世紀ごとの年代別推移ですが、200m以上の巨大古墳については建造時期がWikipedia で紹介されております。その数値をもとに関西のデータをまとめますと下表のとおりです。

なお、Wikipediaでは大阪の河内大塚山古墳(墳長335m)と奈良の見瀬丸山古墳(墳長318m)は6世紀後半の建造となっています。しかし、これらは天皇陵と関係し、調査は認められておらず、正確な建造時期が確認されておりません。因みに、被葬候補者は、河内大塚山古墳は5世紀中の雄略天皇、見瀬丸山古墳は7世紀後の天武天皇と言われ、いずれも建造時期が6世紀後半ではない可能性もあります。そこで、今回はこれら2基については言及しません。
この表では、3世紀後半から巨大古墳が建造されておりますが、5世紀前半にピークを迎えます。そして、6世紀前半には巨大古墳建造は無くなります。
この流れは、墳長合計から見るとより顕著です。4世紀前半は914mでしたが5世紀前半には3700m(4.0倍)になっています。
これら巨大古墳建造だけでなく120mを超える大古墳も多数あり、かつ小古墳もあるわけですから、これらの事業に動員された人々の数や疲れはたいへんなものだったと思われます。
因みに、奈良の墳長278mの箸墓古墳(はしはかこふん)が3世紀末に建造されましたが、このための建造人員数は、「前 方 後 円 墳 の 技 術 史(甘 粕 健 1985)」 によれば100万人以上と推定されています。
エジプトのピラミッド建設については、作業員の居住場所などが発掘されていますが、世界遺産と言われる仁徳陵古墳については、それらは確認されていません。自分で掘っ立て小屋を作り、風雨に耐えたということでしょうか。また、どれだけの距離を歩いて参加されたのでしょうか。食べ物や衣服は持参だったのでしょうか。まったく不明です。
そして、6世紀前半には、これら巨大古墳建造は突然としてなくなりました。おそらく、民衆の反目や怒りは大きく、民衆を動員できなくなった。そして、ついには、巨大古墳王家は滅び、そうした巨大古墳建造は必要なくなったと思われます。
関連し、拙ブログでは、巨大古墳を建造したのは朝鮮半島由来のツングース系王家と観ていますが、その王家が滅びたと言う理由や証拠には次の3点が挙げられます。
1. 継体王(在位:507-531年)の治世が6世紀から始まりますが、巨大古墳建造中止の時期と一致します。その継体王はアイヌ系であることが最近のDNA研究で明らかになっており、王家が変わったことが考えられます。おそらく、アイヌ系の継体王が中心となって旧王家を滅ぼし、新王家を開始したと思われます。
2. 継体王以前の王(天皇)のことは、初代~25代天皇として日本書紀に書いてありますが、王宮や王墓など確認できる物的証拠はなく不明で創作の可能性があります。おそらく、継体王を初め民衆の怒りは大きく、ツングース系王家の歴史は王陵を除き跡形もなくなるほど抹殺されたものと思われます。
3. 日本書紀には継体王直前の王は25代天皇「武烈王」となっていますが、18歳の若さで亡くなっており、かつ、残玉非道の横暴王であったことが書いてあります。このことは、ツングース系王家は民衆の支持が無く、かつ、武烈王は継体王に若くして滅ぼされたことを暗示しています。
まとめますと、ツングース系王家が行った西日本における巨大古墳建造は、5世紀に数と量で頂点になりましたが、これらは民衆の負担が大きく、その結果、民衆の怒りをかい、6世紀初頭に滅ぼされ、アイヌ系の継体王王家が始まったと結論されます。
関連し、西日本における時代別巨大古墳建造の流れと民衆の怒りについて、上トップ図にまとめました。

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