歴史的事実で日本書紀に書かれていないこと

歴史的事実で日本書紀に書かれていないこと(日本書紀は創作)
日本書紀は漢文で記載され、奈良時代(720年頃)に完成し、日本の正史と言われてきました。しかし、それは、天武天皇(在位:673~686年)の要望に従い、現天皇家を敬い、万世一系という内容になっており、その方針に合わない史実は無視するという手法が取られていることを指摘してきました。
今回は、史実だが日本書紀に書かれていない事柄について、さらに検討します。
大きな史実としては、近畿に発生した最初の王家は朝鮮半島由来のツングース系王家であったこと、一方、北九州には邪馬台国・倭国があったことですが、これら2点について日本書紀に書かれていません。
まず、ツングース系王家無視の問題ですが、先にDNA研究(Y染色体ハプログループ分類)で紹介しましたように、天皇家はアイヌ系だという事実です。そのルーツは継体王(在位:507-531年)で、王宮跡、陵墓も確認されています。
しかし、それ以前の大王(天皇)となると、王宮場所不明・陵墓不明ですので、おそらく、継体王以前の大王は、継体王によって滅ぼされ抹殺されたと思われます。その抹殺の証拠にツングース系王家の後継者(末裔)は誰も居ません。
日本書紀では天皇家は万世一系ですので、ツングース系王家のことは触れないようにした。すなわち、無視したものと判断されます。
例えば、ツングース系王家は前方後円墳の巨大古墳をいくつも建造しました。前方後円墳のルーツは朝鮮半島の方墳にあることは明らかです。詳しくは「前方後円墳のルーツはツングース系の方墳」を参照願います。
しかし、これら巨大古墳は万世一系の歴代天皇の陵墓に当てはめられ、この結果、ツングース系王家の姿は日本書紀にはまったく触れられていません。
次に、北九州倭国の無視です。
まず、邪馬台国です。魏志倭人伝によれば、その風俗と容貌は中国の海南島の人々に似ているとあり、その他の多くの指摘を合わせますと邪馬台国が北九州にあったことは確かですが、日本書紀には何も書いてありません。おそらく、北九州倭国関係のことは、万世一系の方針に合わないため無視したものと思われます。
また、次に現れた北九州倭国です。倭国の存在は中国の歴史書や朝鮮半島の歴史書や遺跡に認められます。そして、倭王武については、朝鮮半島南部と北九州を支配した王として中国南朝の歴史書に書いてあります。さらには、埼玉県と熊本県出土の鉄剣にも「倭王武」のことが書かれております。しかし、日本書紀では無視しています。
さらには、倭国と唐・新羅連合が争った白村江の戦いがありますが、この戦いは北九州倭国と唐・新羅連合の戦いでした。しかし、日本書紀では日本(倭軍)と唐・新羅の戦いとしています。しかし、その内容は矛盾だらけです。そして、この戦いで北九州倭国が滅びたことも無視されました。
詳しくは「白村江の戦いの真実、日本書紀は創作」を参照願います。
以上のことから想像しますと、中国語のできる日本書紀の編集者は、北九州の邪馬台国や倭国のことは、中国の歴史書に書いてあることであり、当然のことながら知っていた、しかし、日本書紀の方針で触れたくなかったことだったと思われます。
まとめますと、日本書紀は、万世一系の天皇家が日本を統治してきたという壮大な創造物語であり、これに合わないツングース系王家や北九州倭国の存在は否定され、闇に葬られたのが真相と思われます。
関連し、日本書紀が創作であることを、上トップにまとめました。

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