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縄文思想は何故残ったのか愚考

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レインボー

日本人の縄文思想の確立経過


縄文思想は何故残ったのか愚考(縄文思想と日本人)

前回、日本語のルーツはアイヌ語であること、それは現天皇家初代の継体王(在位:507-531年)がアイヌ系でありアイヌ語を使ったことにあることを検討しました。

一方、日本人には独特の宗教や思考様式があることが知られております。例えば、自然のあらゆる物に神を感じる思想、自然との共生思想などがそれに当たります。神社信仰もこの流れにあると言われます。

そして、これらの精神文化は1万年以上も続いていた縄文時代に育まれたものであることが一般に指摘されています。拙ブログでは、これを縄文思想として検討してきたところです。

しかし、日本の古代史では、採集経済の縄文時代の後に、鉄器と稲作をベースにした弥生時代が到来しました。弥生時代は、高生産性の稲作農業が中心にあり、現日本のベースを作ったと言われます。

その弥生時代集落の人骨分析から、弥生人は朝鮮半島由来の長身のツングース系民族が主体だったと言われ、縄文人は農耕に不適地の北と南の地に追い払われたとも過去には言われました。

現在では、縄文人は弥生人を受け入れ、縄文人はもともとの中山間地に住み、弥生人は農耕に適した平地に住み、平和裏に融合が進んだと言われております。しかし、弥生人が権力者であったことに変わりありません。

その権力者の象徴的遺物は、奈良と大阪に建造された巨大な古墳であり、それら建造物のルーツは朝鮮半島にあることは言うまでもありません。詳しくは「前方後円墳のルーツはツングース系の方墳」を参照願います。

そこで、現在の日本人の思考様式について検討しますと、日本人に弥生人の影響は感じられません。そして、縄文時代の思考様式だけが残っており、何故そうなったのか疑問が出てきます。

前置きが長くなりましたが、今回は、ツングース系民族が支配した激動の弥生時代と古墳時代を経た後でも「日本人の縄文思想はなぜ残ったのか」について愚考します。

結論から先に言いますと、アイヌ系の継体王(在位:507-531年)がツングース系王家を滅ぼし支配者になったため、もともとのアイヌ系の縄文思想や思考様式が主流になったことと思われます。

まず、弥生時代ですが、朝鮮半島からツングース系民族(弥生人)が移入してきました。最初、縄文人の少なかった中国地方や近畿の低地に入り、持参した鉄器で農耕を行い、食料が増え人口が増えました。そして、そうした生産力を背景に王家が生まれ、巨大古墳建造が始められました。巨大古墳建造には多数の人員が必要であり、中山間地に居た縄文系の人々が多数動員されたと推察されます。

古墳時代になると、縄文系の人々も鉄器を入手し農耕をしていたと思われますが、農耕開始が遅かった問題があります。すなわち、水田稲作適地の平野部は弥生時代からのツングース系の人々に占有され、残された場所はもとから住んでいた中山間地であり、生産性は低く、厳しい時代が続いていたと思われます。

なお、中山間地の水田稲作問題については「山間地水田の漏水問題と平野部への展開」を参照願います。

以上のことから、縄文系の人々は弥生系の人々とは住む場所が異なっていましたが、集落をまとめる族長は居て、ツングース系の人々と交易し、古墳建造にも協力もしていたと推察されます。

そこで、アイヌ系の英雄「継体王」の登場経過について愚考しますと、次のようなことが考えられます。

まず、彼は福井のアイヌ系の出身者であり、次第に支持者が増え、縄文系をまとめる強力な族長になりました。そして、他地域のアイヌ系や縄文時代から居たマレー系の仲間と族長連合し、古墳建造等で民衆の怒りが頂点に達したのを見てツングース系王家を滅ぼしました。

その結果、支配の本拠地だったツングース系の王宮は焼き払われ、古墳を除き、ツングース系のものは低地水田を含め、すべて縄文系の人々に奪われたと思われます。ツングース系王家については、その存在すらも否定されるに至ったと思われます。

一方、それらを略奪した者は、継体王を含めアイヌ系の豪族が主体と思われますが、彼らは略奪者であり、その行為は恥ずべきものであった。このため、これらの事件について、後の日本書紀、古事記、風土記等の書物に残せなかったのが真相と思われます。

また、何故古墳だけが残ったのかですが、それらはアイヌ系の人々にとって価値のないもの、労力をかけて壊す価値のないものだったためと思われます。

そこで、本題の縄文思想がなぜ残ったのかですが、古墳時代も縄文思想は縄文人(アイヌ系)集落に残っており、アイヌ系の継体王が大王になると、それが中心思想になったと思われます。

関連し、儒教や、仏教の教えが入っている聖徳太子作成と言われる17条の憲法ですが、「和」の重視が一番目に入っています。「和」は、自然との共生とも関連し、縄文思想の一つと思われます。聖徳太子は継体王のひ孫にあたり、アイヌ系ですが、彼が、このような思想を持っていることは、王家がツングース系王家からアイヌ系王家に変わったことを暗示していると思われます。

なお、聖徳太子の17条の憲法について詳しくは「聖徳太子の17条の憲法と縄文思想」を参照願います。

まとめますと、縄文時代由来の日本人の縄文思想は、弥生時代、古墳時代も縄文人集落で続いており、アイヌ系の継体王がツングース系王家を滅ぼし、新王家を開始した結果、主要な思想になったと結論されます。

関連し、それらの経過を上トップ図に示しました。

なお、このような「縄文思想と日本人」に関心のある方は、拙ブログ左側にありますカテゴリから「縄文思想と日本人」を選びクリックしますと、関連の記事を見ることができます。



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Posted byレインボー

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  • 2021/11/21 (Sun) 17:58
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