奈良と大阪がなぜ古代日本の中心となったのか
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奈良と大阪がなぜ古代日本の中心となったのか(記事まとめ)
巨大古墳が奈良と大阪に集中していることは知られているところです。まさに、奈良と大阪は古墳時代の中心地だった思われます。
しかし、大陸文化導入については北九州の方が近い位置にあります。事実、北九州にある奴国や邪馬台国が大陸と交易し、先に発展していたことは歴史的事実です。
関連し、今回は、中国から遠く離れた奈良と大阪が、なぜ古墳時代の中心地になったのかについて愚考します。
まず、古墳時代以前の縄文時代と弥生時代遺跡ですが、近畿と周辺の各県遺跡数は下図の通りです。


これらの図から、北陸、東山、東海は縄文時代遺跡が多く、縄文系の人々が多かったと推察されます。
一方、近畿以西の西日本は、縄文遺跡が少なく弥生遺跡が多く、弥生時代に人口が増えたと推察されます。これら弥生系の人々は、朝鮮半島由来の農耕民族で、持参した鉄器を持ち込み水田稲作や畑作を行い食料が増え、人口が増大したと思われます。
弥生時代の発展度合いを示す指数として、「弥生時代遺跡数/縄文時代遺跡数比」を使いますと、下図のとおりです。すなわち、縄文系の多かった北陸、東山、東海は停滞し、一方、近畿以西は発展したと判断されます。

府県別に見ますと、香川の数値が以上に高い値になっています。これは、縄文時代遺跡数が極端に少なかったために大きくなった数値ですので、例外的とみることができます。次に大きいのが大阪、次いで岡山です。弥生時代、大阪は中心地の一つであったと理解できます。
次に奈良について見ますと、内陸県のためか、水田稲作適地は少なく弥生時代遺跡数が少ない傾向があります。しかし、他の内陸県で縄文系の多かった長野、岐阜と比較しますと、「弥生時代遺跡数/縄文時代遺跡数比」の値は奈良で明らかに高く、奈良も内陸ながら発展した様子が伺えます(下図参照)。

以上の経過から見ますと、奈良と大阪の地は近畿地域の中心地として、鉄器を持参したツングース系の人々によって農業が発展し、食料が増え、人口が増えたと判断されます。
そして、その地域にできた王家は近畿・東海・東山地域を支配することに成功し、それらの中心地の奈良を選んで最初ツングース系王家を創設したと思われます。それは纏向遺跡ですが、その象徴的モニュメントとして、当時3世紀としては巨大な墳長278mもある箸墓古墳が建造されたものと理解されます。
その箸墓古墳ですが、「前 方 後 円 墳 の 技 術 史(甘 粕 健 1985)」によれば、建造人員数は次のとおりです。
古墳造営に要する労働力の算定については幾つかの試みがなされているが、箸墓の土量を30万m3として,1m3の築成 について3.5人で1日 を要す る とする と、延べ100万人、これに葺石、石 室 の構 築、作 業 貝の供与、施設等 に要する人員をさ らに加 算 しな ければならない。(引用終了)
すなわち、100万人以上の動員がありますが、これをできるのは強い王権があったことを示唆します。そして、この地、纏向に最初のツングース系王家の宮殿が建設され、ここが畿内最初の王権の始まりと思われます。
なお、箸墓古墳は、奈良県桜井市にありますが、ここは奈良盆地中央部にあり、三重県、滋賀、大阪、和歌山の中心地にあります。遺跡調査によれば、当時は人口の少ない田舎だったようですが、箸墓古墳建造に当たっては、人を集めやすい場所として選ばれた地理的背景があったと思われます。
そして、同時に、王家に続く道ができたと思われます。当時の宮殿と思われる纏向遺跡が発見されましたが、これら王家への道を通って人や物資が往来したことが感じられます。
その後、墳長200m以上もある巨大古墳の建造が大阪に移るまでの150年(250~400年)間に12基建造されました。これらの結果、奈良の地は道路もさらに整備され、畿内の中心地になっていったと思われます。
続いて、大阪が中心地になります。この中心地の移動は、拙ブログではツングース系王家支配地の拡大の結果と観ています。すなわち、この時期(400~500年)、馬の飼育場があったこと、また、馬も乗せることができる大型の構造船もあったことが知られております。
こうした馬や構造船を使い、その支配地は中国、四国、九州の東岸まで及んだと推察されます。その結果、中心地は海に面した大阪に移動したのではないかと思われます。詳しくは「馬とツングース系王家」を参照願います。
まとめますと、奈良と大阪の地はもともと縄文人の少なかったところでしたが、ここに移住してきたツングース系民族は、持参の鉄器を使い農産物の生産を行い人口が増え、王家を開いたと結論されます。そして、その王権は巨大古墳を多数建造し、人や物資が往来し、道ができ、畿内の中心地になっていったと推察されます。
関連し、この様子を上トップ図に示しました。
なお、近畿のツングース系王家と先進地の北九州の関係ですが、次のようであったと思われます。
まず、北九州では、邪馬台国が滅んだあと、倭国が登場します。倭国は、百済と共同して高句麗と戦ったことが分かっていますので、南方系稲作民族マレー系の国だったと推察されます。そして、近畿のツングース系王家とは戦わず、並立していた時代と思われます。
また、朝鮮半島の民族の経過から、倭国は百済、一方、近畿のツングース系王家は同じくツングース系の新羅と関係があったと推察されます。しかし、倭王武の時代(5世紀)、新羅は倭国の属国の地位にあり、新羅とツングース系王家の関係は強力では無かったと思われます。
詳しくは「古代の朝鮮半島の民族と国家」、および「古代日本列島の民族と日本統一の経過」を参照願います。

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