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出雲国はヤマトのツングース系王家の始まり愚考

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レインボー

出雲四隅古墳のルーツは高句麗


出雲国はヤマトのツングース系王家の始まり愚考(西日本の古代)

前回、日本の神話と古代史の関係について検討しました。

日本神話が最も多く残されているのが出雲と言われます。そして、出雲大社があり、なんとなく古代には出雲王国があった印象があります。

関連し、今回は、出雲について、それらの遺跡を検討し、出雲は、近畿に強大な王国を創ったツングース系王家の始まりであったこといついて愚考します。

まず、出雲国の有名な遺跡ですが、3世紀(弥生時代末期あるいは古墳時代始まり)建造の四隅突出型墳丘墓(方墳)があります。四隅の敷石配置が美しい特徴があります。

Wikipediaによれば、四隅突出型墳丘墓は、総数103基で、島根県39基、鳥取県28基で、山陰地方を中心に建造されました。最大のものは、島根県出雲市の大型墓西谷3号墓(最長辺約50メートル)になります。すなわち、これら方墳の中心地は出雲だったことになります。

また、弥生時代末期に製造された大量の銅鐸と銅矛が島根県の荒神谷遺跡(こうじんだにいせき)で発見されました。

これら、方墳と青銅器のルーツは、当時、強大だったツングース系民族の高句麗という説が一般的です。すなわち、当時、この地域を支配していたのは高句麗由来のツングース系民族だったと思われます。

因みに、方墳ですが、大陸の王墓の様式で秦の始皇帝陵や高句麗広開土王陵は有名です。詳しくは「前方後円墳のルーツはツングース系の方墳」を参照願います。

続いて、出雲の古墳時代ですが、古墳(前方後円墳)で最大のものは墳長110mが1基、次に100mが1基で、100mを超える古墳は2基だけです。また、それらの建造時期は5~6世紀です。すなわち、四隅が作られた3世紀の後の4世紀に、この地域を支配した巨大な大王は見当たりません(下表参照)。

山陰地域の大古墳

因みに、5世紀は、ヤマト(奈良・大阪)に200mを超える巨大古墳が多数建造されていた時代で、これらヤマトの巨大古墳と比較しますと、出雲には小豪族が居たに過ぎない地域になっていた感じがします。

その理由は、おそらく人口の少なさにあったと思われます。拙ブログでは、出雲国(島根・鳥取)の古代人口を遺跡数から推定したことがありますが、継体王(在位:507-531年)時代、出雲の人口は12万人、一方、吉備は16万人、北九州倭国は24万人です。

詳しくは「継体王時代の各王国の人口と力関係」を参照願います。

そこで、古代の出雲をどうとらえるかですが、次のような感じかと思われます。

まず、弥生時代、出雲は、北九州と同じく大陸の隣にあり、朝鮮半島から多くの人が入ってきました。その民族は高句麗(朝鮮半島)由来のツングース系で、3世紀には四隅古墳や青銅器が作られ先進地域となり、小さな出雲王家が創られました。しかし、稲作に適した平地は少なく発展は停滞しました。

そこで、出雲王家は新たな発展を目指し、平野部の多い稲作に適した隣の吉備(岡山)に向かいました。吉備では、先住民族のマレー系と戦いました。強大な高句麗の子孫、かつ高身長のツングース系にとって低身長のマレー系との戦いに勝つのは難しくないことだったと思われます。

なお、吉備のマレー系については、「岡山県の稲作民族ルーツ愚考」および「弥生時代最大墳丘墓のある岡山県の「楯築遺跡」と邪馬台国」を参照願います。

そして、ヤマトの纏向遺跡や巨大古墳遺跡の陶器には吉備の影響が強いことから推察しますと、その後、彼らの子孫は、先に住んでいたツングース系の仲間と共同し、近畿の支配者となり、その中央部のヤマト(奈良)に強大なツングース系王家を作ったのではないかと思われます。

まとめますと、高句麗(朝鮮半島)由来のツングース系民族は、出雲に小王家を創り、次に隣の吉備に移り、最後にはヤマトを支配し、近畿で最初のツングース系王家を創ったと思われます。すなわち、ヤマト王家のルーツは3世紀の出雲にあったと思われます。
関連し、これらの関係を上トップ図に示しました。


一方、出雲については、古事記や日本書紀、さらには出雲風土記に多くの記事が認められます。これをどう見るかですが、このことについては次回、検討したいと思います。


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レインボー
Posted byレインボー

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形名
出雲に進出したツングース族

レインボーさん、こんにちは。ご無沙汰してます。

面白い仮説でした。弥生後期前後、出雲が高句麗を含む半島の影響を色濃く受けているのは間違いないと思います。同時に疑問点もあります。
本記事では出雲に進出した民族をツングース系王家と呼んでいますが、ツングース系民族には多くの種族があります。出雲に進出した民族は少なくとも北方ツングースでないのは騎馬民族文化(生業は牧畜、狩猟)がないことから明白だと思います。高句麗成立以前~高句麗黎明期を考えれば、同地域に居住した民族は農耕ツングースの扶余族に他なりません。江上波夫論の影響でツングースは全て騎馬民族のイメージが付きまといますが全くの誤解だと思う。彼らが日本に渡来したとすれば、環境変化適応はあったでしょうが、農耕を生業とし、牧畜、養蚕を副業とするのは想像がつきます。これを前提に以下の質疑事項を記載します。

①扶余族が居住した大陸の農耕遺跡からは大量の鉄器農具が出土している。ユーラシア大陸北東部の青銅器文化は4000年前に始まり3000年前には鉄器文化に移行している。日本の弥生時代に相当する時期の扶余族の青銅器文化の保有は積石塚の副葬品として少数が確認されているが、少なくとも隆盛・主流であったとは考えられない。渡来先の出雲での青銅器文化隆盛をどう解釈するか?
※出雲には、たたら製鉄遺跡があり、この点では矛盾しないが、祭祀青銅器文化隆盛が認められるのは事実。

②高句麗扶余族の墓制は黎明期の積石塚です。基壇型は方墳が多いが、墳丘全体が積石です。四隅突出型墳丘墓は方墳の派生と考えられるが、基本は封土墳であり、封土の葺石として石が貼られている。高句麗で封土墳が出現するのは高句麗時代後期(5末~7世紀)です。出雲への扶余族の進出時期とは合致しない。墳墓の形態は、その地域の特性で変容することは考えられるが、渡来初期だけとしても完全な積石墓が出雲に存在しない点で、墓制の異質性が感じられます。この点をどう解釈するか?

  • 2021/12/19 (Sun) 12:25
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レインボー
レインボー
Re: 形名様、出雲に進出したツングース族

形名様
たいへん貴重なコメント、ありがとうございます。

ご質問への回答は以下のとおりです。

①渡来先の出雲での青銅器文化隆盛をどう解釈するか?

 回答:弥生時代はBC300年頃から鉄器導入とともに農耕が発展しました。その意味で、出雲の青銅器文化が創られるまで500年~600年の時が流れております。その青銅器のルーツは大陸であったことは知られていることです。そして、出雲では、独自の青銅器文化に発展したのではないかと、考えているところです。

②墳墓の形態は、その地域の特性で変容することは考えられるが、渡来初期だけとしても完全な積石墓が出雲に存在しない点で、墓制の異質性が感じられます。この点をどう解釈するか?

 回答:出雲のツングース系は、弥生時代500年~600年の間に、墓制について独自の発展をしたのではないかと考えております。方墳から前方後方墳への変動も、これも独自の発展と思われます。

まとめますと、この時代のことは知らないことばかりです。すべては、遺跡物から勝手な推定をしているのが現状です。

  • 2021/12/20 (Mon) 08:34
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motomasaong
興味深いですね。

「扶余族の青銅器文化の保有は積石塚の副葬品として少数が確認されている」とあります。鉄製品は青銅製より優れていますが錆びやすいのが欠点です。また、農具として実用化されており、すぐボロボロになるので青銅器のように鏡や食器には使えません。つまり扶余族が副葬品にしていたのは、青銅の保存性が良く、鏡などの高級品として使用されていたからだと予想されます。中国でも青銅の鏡や食器はありましたが、鉄製はありません。扶余族が日本に渡来したなら、故郷の先祖崇拝からは青銅器を神事や祭祀、墓の副葬品には使ったでしょうが、実用品にするはずはありません。出雲にたたら炉があり、鉄製品は実用品としていたのなら、青銅は祭祀用や墳墓用として貴重品扱いしたとしても何の不思議もありません。貴金属は一般的に、美しく腐食しにくい金、銀などが選ばれ、腐食しやすい鉄は貴金属扱いされないからです。遺跡から青銅が出やすいのも、貴重品だったと考えるなら当然です。たとえ騎馬民族であったとしても、王朝の存在は農耕をかなめとしています。古事記にスサノオが機織り場に馬の皮を投げ込んだとありますから、既に養蚕もあった事が類推されます。さらにスサノオが地上に落とされた時、口から穀物を吐き出して与えようとした女神が殺され、死体から穀物や蚕が生まれたともありますから、濃厚も養蚕も扶余族同様にあったことが類推されます。これらは農耕と養蚕を実行していた扶余族の生活と一致します。さらに、高句麗の創始者は扶余族の金蛙王の養子であった朱蒙とされています。騎馬民族とされる高句麗の初代王が扶余族から発生している以上、その段階で既に濃厚文化の基礎があった事になり、騎馬民族が100%濃厚のない文化であったと考えるのは無理があります。以上により、出雲文化が扶余族や高句麗の末裔によるものであったとしても、何の問題もない事になります。

「高句麗扶余族の墓制は黎明期の積石塚です。渡来初期だけとしても完全な積石墓が出雲に存在しない点で、墓制の異質性が感じられます。」とありますが、渡来初期には統治や生活の確保に必死になっているはずであり、現地人との軋轢もあったはずですから、巨大な墳墓を作る余裕などあるわけがありません。
 また、現地人の風習の影響もあったでしょうから、統治するに当たって現地の風習の影響を受け、祭祀の形が変容した可能性もあります。
 さらに、エジプトのピラミッドも、最初は数段程度であったことがわかっていますが、徐々に権力が増して技術が進むにつれて巨大化していきました。始皇帝も最大の墳墓を作れたのはそれだけの権力と財力があったからこそです。モーゼは墓もありませんが、キリスト時代のヘロデ王の時代には壮麗な神殿を建設していました。
 どの王朝も、黎明期には巨大墳墓は作っていません。従って、初期の段階で出雲に墳墓がないもことによってツングース系ではないと否定する事は不可能です。さらに、墳墓の形態は権力の集中と財力によってより巨大化するのが一般的ですから、時代が下れば本来朝鮮半島で作っていた以上の墳墓を作ったとしても不思議ではありません。よって、墳墓の形態が高句麗などと異なっていたとしても、時代の変遷を考慮すればツングース系と出雲が無縁だとする根拠にはなりません。

 
 

  • 2021/12/20 (Mon) 14:42
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レインボー
レインボー
Re: motomasaong 様、興味深いですね。

motomasaong 様
たいへん貴重なコメント、ありがとうございます。

青銅器と鉄器の違い、また、高句麗との墳墓の違いと発展の関係、たいへん参考になります。

上記二つのコメントを総合しますと、日本へ初めて青銅器文化をもたらしたのは高句麗由来の扶余族、
その中心地は出雲であったと確信しました。

  • 2021/12/21 (Tue) 08:02
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形名
訂正

こんにちは。
先にコメントした情報に誤認識があったので訂正しておきます。私は高句麗人である貊族(ばくぞく)と北方の扶余族は同族であるという認識で、出雲に渡来したかも知れない民族を纏めて扶余族として記載しています。この同族認識は現状では正しくないようです。
高句麗人は農耕ツングース系の貊族が起源ですが、後に北方の扶余族を高句麗に併合したときに、戦略的に両者は同族であるというキャンペーンを行ったことで同族という認識が生まれた可能性が高いそうです。従来では、この同族説が主流であったので、私も高句麗=扶余族と考えて記載してました。しかし、最新の研究で、両者は同じツングース系であるが、種族は全く異なるという見解が最新の定説となっているようです。両者の墓制文化も異なっています。貊族は積石塚であり墳丘は積石だけで造られる。扶余族は木槨土壙墓で、基本的に墳丘は無く、地下に立方型の穴を堀り、遺体を埋葬する土葬形式だそうです。(続く)

  • 2021/12/22 (Wed) 11:38
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形名
続き

【参考】中国の魏志扶余伝によれば、以下のように記載されている。
『その人民は定住土着する。その人々は大柄である。性格は、強く、勇敢で、つつしみ深く、略奪するようなことはしない。・・・・死んだ時は手厚く葬り、槨(土坑を支える梁)はあるが棺(木棺)はない。』

【参考】中国の魏志高句麗(貊族)伝によれば、以下のように記載されている。
『人々の性格は凶悪、短気で、略奪を好む。・・・・男女は結婚すると少しずつ死に装束を作り始める。手厚く葬り、金、銀や財産は死を送るのに使い尽くす。石を積んで盛り土がわりに遺骸を封じる。』

以上参考は陳寿の記述なので一概に信用できるか分かりませんが、日本に渡来したとすれば、定着性が強く温和な扶余族ではなく、同じツングース系の高句麗貊族と考えたほうが、民族性としては合致するようにも思えます。日本には弥生後期の積石墓が北九州、四国香川、下越などにありますし、各々渡来人の存在も推定されている。一方、出雲の墓制は日本型弥生墳丘墓に始まり、その後変容していくもので、墳丘のない木槨土壙墓とは相違点があるのも確かです。

  • 2021/12/22 (Wed) 11:46
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レインボー
レインボー
Re: 形名様、訂正、貊族(ばくぞく)と扶余族

形名様
貴重な情報、ありがとうございます。

貊族(ばくぞく)と扶余族の墓制の違い、そして、出雲には墳丘は積石の貊族が来た可能性が強い、理解しました。
草々

  • 2021/12/23 (Thu) 07:37
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レインボー
レインボー
Re: 形名 様、続き、日本に渡来したのは高句麗貊族

形名 様
続きの情報、ありがとうございます。

日本に渡来したのは高句麗貊族、理解しました。
そして、ヤマトに巨大古墳王家を創ったは高句麗貊族の可能性が高くなりますね。
草々

  • 2021/12/23 (Thu) 08:14
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motomasaong
真実はどこに?

 高句麗も扶余も相互に影響し、どちらも中国の影響下にありましたから、異なる民族だとしても武器や農業技術は共通するものがあったはずです。
 高句麗が騎馬民族だとしても広大な領土を支配していますし、農業地帯からの租税は農作物だったでしょうし、農業の重要性は認識していたはずです。鉄の武器を使用していた以上、高句麗も鉄製農具を作る事が出来たでしょう。
 どちらの民族も滅亡する過程において、日本に逃げて来たのかもしれません。その点では、機動性の高い騎馬民族の方が移動に有利であったのは本当でしょう。ただ、海を渡るには航海技術が必須ですから、本当に北方の騎馬民族が独力で日本に来たと考えるのは無理があります。
 国家崩壊の過程で多民族の文化が相互に影響し、騎馬の技術、鉄製の武器と農具、航海技術が統合され、さらに日本との文化的交流により日本の情報が知られるか、日本から朝鮮半島に来ていた人々からの情報を得た上で日本への渡来が起きたはずです。
 北方の騎馬民族としての高句麗が独力で日本に渡来したと考えるより、オリジンは高句麗であったとしても、渡来に至るまでには南下と他民族との交流、結婚などがあったのではないでしょうか?
 過度の一元論的な仮説は真実から遠いと思います。航海技術も日本の知識もない状態で高句麗や騎馬民族が渡来したと考えるのには無理があるように思いますがいかがでしょうか?
 現に日本はアジア人の国家ですが、現在では大量の中国、韓国、ブラジル、南米、フィリピン、ベトナムの人々が存在し、農村などでは大量にこれらの人々との結婚が行われ、私自身、これらの人々と結婚した人々を多く見ています。古代においても、戦争後や国境地帯では同じことが起きなかったはずはありません。

  • 2021/12/23 (Thu) 16:33
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レインボー
レインボー
Re: motomasaong様、真実はどこに?

motomasaong様
いつも貴重なコメント、ありがとうございます。

ご指摘のとおり「騎馬民族が渡来したと考えるのには無理がある」はその通りだと思います。
当時は馬を乗せることができる構造船はありませんでした。

その意味で、出雲に来たのは馬無しの農耕主体の高句麗人と判断されます。
草々

  • 2021/12/24 (Fri) 07:30
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