「アイヌ系大王の登場と古代」のまとめ等について

「アイヌ系大王の登場と古代」のまとめ等について(ごあいさつ)
新年にあたり、今年の目標について紹介させていただきます。
拙ブログは、2017年4月に始まりましたので、今年は6年目に入ります。記事アップ数は400回を超え、これまでひらめきや思い付きで書いてきましたが、もう書くことは無くなった感じがします。
そこで、今年は、大課題を作り、記事のまとめをしたいと考えています。
その最初のタイトルですが、「アイヌ系大王の登場と古代」(仮題)を考えています。アイヌ系大王とは継体王(在位:507-531年)のことです。
最近のDNA研究(Y染色体ハプログループ分類)の結果、現天皇家はアイヌ系であることが分かりました。このことは、大発見で、古代の権力者は朝鮮半島由来のツングース系王家から日本先住民族のアイヌ系王家に変わったことを意味し、これまでの「天皇家は万世一系」という古代史を変えなくてはなりません。
記事まとめ「アイヌ系大王の登場と古代」では、これらのことを物語風にまとめてみたいと思っています。
一方、現在の日本の古代史は、現天皇家のルーツはアイヌ系という事実に言及していません。「日本の古代史は戦前と変わっていない」という指摘がありますが、まさにその通りで、これを変えることは簡単ではない感じです。
関連し、その例を挙げれば、邪馬台国所在地論争に関し、「邪馬台国はなかった」(1971 古田武彦)があります。本著は「邪馬台国は邪馬一国で北九州にあった」ということを論理的に書いたものですが、本書を超えるものはまだ見当たりません。
また、魏志倭人伝の「倭人は入れ墨(刺青)の風習」について、ヤマト(奈良)には無い風習であり、それは北九州に渡来した南方系稲作民族(マレー系)の習慣であることを拙ブログでは指摘してきました。
しかし、邪馬台国ヤマト説では、この倭人の風習には触れません。すなわち、都合の悪いことは無視するという、およそ学問ではなくなっています。
そして、新聞等マスコミでは、未だに、奈良の纏向遺跡は邪馬台国の遺跡の可能性なんてことが書いてあります。しかし、これらのことは放置はできませんので、拙ブログは今年も真実の追及を続けます(笑)。
なお、1月の予定ですが、上記の記事まとめ「アイヌ系大王の登場と古代」に入る前、昨年からの続き、「巨大古墳建造王家の滅亡」と関連したことについて記事アップを続ける予定です。
関連し、記事アップ間隔ですが、昨年と同じく週1回を目標に木曜日夜にアップする予定です。
また、FC2ブログ関係の皆様への訪問ですが、これも昨年と同じく2日に1回とし、興味深い記事にはコメントや拍手コメントを入れたいと思っています。どうぞ、よろしく。
なお、上と下の写真は我が有機菜園の秋の様子で、美しく咲いたコスモスと菊です。コスモスの陰に男の隠れ家があります(笑)。今年は、これらの花のように行きたいところです。


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