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巨大古墳王家滅亡の衝撃と関東地方への影響

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レインボー

関東へのツングース系民族の侵入と大古墳数


巨大古墳王家滅亡の衝撃と関東地方への影響(関東・東北の古代)

現天皇家はアイヌ系であることが最近のDNA研究から明らかになりました。関連し、拙ブログでは、アイヌ系の継体王(在位:507-531年)によって、ヤマトの朝鮮半島由来ツングース系王家、すなわち巨大古墳建造王家が6世紀初頭(507年?)に滅ぼされたことを検討してきました。

一般に200mを超える巨大古墳建造には、「前 方 後 円 墳 の 技 術 史(甘 粕 健 1985)」を参考にしますと、100万人以上の労力が必要と推定されます。ヤマトの王家は、これら巨大古墳30基以上を250年間(250年~500年)に西日本で作ったことが確認されていて、巨大な権力を持った王家だったと推定されます。

その意味で、その王家が滅亡したことは、規模は小さくなりますが、100m以上の大古墳を多数建造してきた関東の王家や豪族にも衝撃だったと思われます。

関連し、今回は、関東におけるその滅亡の衝撃について、関東の大古墳(前方後円墳)の建造推移から、前方後円墳体制と関連し愚考します。

まず、Wikipediaの古墳一覧を参考に、墳長100m以上の都県別の大古墳について下表に示しました。100m~200mが44基、200m以上が2基、合計46基あります。

関東各県の墳長100m以上の古墳数

建造のための人員数ですが、墳長200mで100万人とすると、100m程度となるとその4分の1、すなわち25万人以上が動員されたと推定されます。この動員数は当時の人口から推察しますととても大きな数字で、大きな権力者、すなわち王家があったと観てもおかしくない数字です。特に、200m以上が2基もある群馬にはヤマトに次ぐ大王家があったと観ることができます。

次に、世紀別建造数を下表に示しました。建造時期は4世紀に13基、5世紀に15基、6世紀に16基、7世紀に1基となっていて、4~6世紀の300年間が関東地方の古墳時代という感じです。

関東各県の墳長100m以上の世紀別古墳数

特に群馬ですが、その300年間に15基の大古墳が建造されています。平均すると20年1基、王の在位年数を20年とすると、系統的な大王家があったことが感じられます。さらには、その他100m以下の中小古墳建造もあり、建造に動員させられた民衆の負担は相当大きかったと推察されます。

次に、ヤマト(奈良・大阪)の巨大古墳王家滅亡の影響ですが、徐々に広がっていった感じです。すなわち、ヤマトの巨大古墳王家は6世紀初頭に滅びましたが、関東では6世紀も大古墳が建造され続けました。そして、7世紀となると、ほぼ終わります。

関東で大古墳建造を行った王家の民族ですが、埴輪などの遺跡や人骨調査を総合すると、ヤマトと同じくツングース系王家であったことは確実です。それらの経過は次のようであったと推察されます。

関東にもともと居たのは縄文系(アイヌ系等)でしたが、縄文晩期に寒冷化、そして富士山や浅間山の火山噴火があり、主食の栗林は破壊され、縄文集落は破壊され、人口が激減したことが知られています。

彼らは、残った栗林のある山間地域の一部や、海岸地帯で魚介類を収集して生きのびたと推察されています。詳しくは「縄文時代晩期、関東は富士山噴火で壊滅的打撃を受けた」を参照願います。

この火山活動が収まったのは縄文終期ですが、そこへ、満州(中国東北部)出身のツングース系民族が朝鮮半島から侵入してきました。彼らは農耕民族で、かつ農耕用の鉄器を持っていましたので、食料問題は置きませんでした。

そして、紀元前1世紀頃、関東地方に水田稲作が導入されますと、ツングース系民族は水田開発に有利な関東平野に広がり、生産力をあげ、人口が増え、その生産力を背景に豪族や王になっていった者が現れたと思われます。

関東のツングース系の王や豪族は、その権力者の象徴である前方後円墳という大古墳を5世紀から建造するに至りました。しかし、大古墳建造は民衆の負担が多く、反感も多く、奈良・大阪と同じく建造は困難になっていき、終には、それまで従っていたアイヌ系の豪族等によって滅ぼされ、抹殺されてしまったのではないかと思われます。

その抹殺されたと考えられる最大の理由ですが、建造された大古墳の埋蔵者が不明であることです。これには、ツングース系王家という弥生勢力とアイヌ系等縄文勢力という民族対立もあり、民衆の怒りは大きかったことが想像されます。その結果、ヤマトと同じく古墳だけが残ったと思われます。

これらの結果、関東でもツングース系王家に代わり、アイヌ系豪族が新しい支配者となっていったものと思われます。関東地方はもともとアイヌ系が多かったところですので、この経過は近畿のヤマト王家が滅びた後のことでもあり、自然な歴史経過と思われます。

因みに、関東においては現在でもアイヌ系は多数で約50%です。マレー系30%も加えると、合計すると80%で、ツングース系(15%程度)は明らかに少数派です。詳しくは「関西人のDNAとルーツ」を参照願います。

関連し、ツングース系民族の関東支配の様子を上トップ図に示しました。

最後に、これら関東の大古墳建造者と近畿のヤマト王家(朝廷)との関係について検討しますと、次のようであったと推察されます。

まず、近畿では、ツングース系王家が滅亡したときが6世紀初頭(507年?)、その後の6世紀には巨大古墳は作られなくなりました。しかし、関東では、その後の6世紀も大古墳の建造が続きました。

このことは、ヤマト朝廷の許可を受けた者だけが前方後円墳を建造できるという「前方後円墳体制」という説がありますが、あてはまりません。ヤマトの王家とは別に、関東には別のツングース系王家があったことを示しています。

上トップ図を参考にしますと、おそらく、関東のツングース系は、ヤマト方面からでなく新潟方面から来た可能性が高く、かつ、移住から王家ができるまで500年以上かかっていることから推察しますと、ヤマトのツングース系王家との関係は弱く、独立して発展した可能性が高いと判断されます。

言い換えますと、前方後方墳というのは当時の権威の象徴であり、流行だったにすぎないと思われます。

前方後円墳体制について、詳しくは「前方後円墳体制はあったのか愚考」を参照願います。


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Posted byレインボー

Comments 6

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motomasaong
権力の象徴としての墳墓

 非常に興味深く読ませて頂きました。

「近畿では、ツングース系王家が滅亡したときが6世紀初頭(507年?)、その後の6世紀には巨大古墳は作られなくなりました。しかし、関東では、その後の6世紀も大古墳の建造が続きました。」

 ツングース系が滅亡したにも関わらず、関東で古墳建造が続いたという事は、ツングース系以外、即ちアイヌ系王家や豪族も、ツングース系を摸倣して権力の象徴として墳墓を作っていたという事になります。
 もし、ツングース系の許可なく墳墓が建設されることはなかった、つまりツングース系の支配が広範囲に及んでいたなら、ツングース系の滅亡前には墳墓は作られず、滅亡後に作られるようになったはずですが、前後を問わず作られていたのですから、この説は成立せず、ツングース系が関東全土を支配していたことはなかったことになります。

 ただ、疑問点があります。
 一つは、ツングース系王が墳墓建設で憎悪されアイヌ系に滅亡させられたなら、何故、滅亡後も墳墓建設が続いたのかという点です。継体王の支配も一地方に留まり、他の関東では他の豪族の支配と自治が続いていたのでしょうか?
 その場合、アイヌ系も墳墓を作っていたわけですが、何故、アイヌ系の王族豪族の記録が存在していないのでしょう? この段階ではまだ漢字の文化がなかったのでしょうか?それとも副葬品が墓荒らしによって盗掘されたのでしょうか?
 二つ目は、ツングース系滅亡後もアイヌ系も墳墓を作っていたとすると、ツングース系の王の滅亡が、本当に墳墓建設にともなう強制労働や課税への憎悪によるものかどうかが怪しくなります。
 また、当時も各地の豪族が墳墓を作るだけの勢力を持っていたとすると、むしろアイヌ系豪族もツングース系に拮抗できるだけの実力をつけていたこと、相対的にツングース系王が弱体化してきており、結果的にクーデターが起きて滅亡させられたのが事の真相かもしれません。
 江戸幕府にも多くの問題がありましたし、享保、天保の大飢饉で多くの民衆が死んでも支配者階級だった武士は誰も死んでいません。江戸末期に幕府が弱体化し、アメリカの武器商人と組んだ坂本龍馬などの地方の軍事力が相対的に強化された結果、クーデターとして明治維新が起き、江戸幕府が滅亡しています。
 たとえどんなに悪逆非道な王であろうとも、強大な軍事力があるかぎりヒトラーのように好き放題出来ますから、確かにツングース系が嫌悪されていた可能性は高いでしょうが、継体王のクーデターが成功したのは、アイヌ系の相対的な軍事力強化があったのではないでしょうか?

  • 2022/01/07 (Fri) 09:58
  • REPLY
レインボー
レインボー
Re: motomasaong 様、権力の象徴としての墳墓

motomasaong 様
いつも貴重なコメント、ありがとうございます。

以下、疑問点に回答します。

>一つは、ツングース系王が墳墓建設で憎悪されアイヌ系に滅亡させられたなら、何故、滅亡後も墳墓建設が続いたのかという点です。

回答:拙ブログでは、ヤマトのツングース系王家と関東のツングース系王家は、それぞれ違うと観ています。
   すなわち、ヤマトのツングース系王家が滅んでも、関東のツングース系王家には関係の無いことで、権力の象徴としての大墳墓を続けたことになります。


>二つ目は、ツングース系滅亡後もアイヌ系も墳墓を作っていたとすると、ツングース系の王の滅亡が、本当に墳墓建設にともなう強制労働や課税への憎悪によるものかどうかが怪しくなります。
 

回答: 一つ目の疑問と同じ回答になりますが、ヤマトのツングース系王家が滅んだ後も、関東のツングース系王家は大墳墓を作り続けただけの話になります。

 なお、以上の疑問がでるのは拙ブログの記事に分かりにくい点があるためと思われますので、それらの点について記事に加筆しました。


  • 2022/01/08 (Sat) 08:15
  • REPLY
motomasaong
よくわかりました。

 納得です。ありがとうございました。

  • 2022/01/08 (Sat) 08:53
  • REPLY
レインボー
レインボー
Re: motomasaong様、感謝

motomasaong 様
ご理解いただき、ありがとうございました。
草々

  • 2022/01/09 (Sun) 08:22
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形名
東日本の弥生後期の考古学事象

こんばんは。
ついに関東にもツングース系が進出してきましたね。笑。
東日本の弥生時代終末期の出来事として、「東海地方西部起点の拡散移住現象」が考古学の多くの研究者によって学術的に証明されています。現象要約は私のメモ記事になっているので参照してください(ここに記載するコメントとしては長すぎるので)。
https://katana04.blog.fc2.com/blog-entry-1777.html
いつの機会にか、レインボーさんの記事で、これらの事象の解釈にも触れて欲しいと思います。

  • 2022/01/15 (Sat) 02:49
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レインボー
レインボー
Re: 形名 様、東日本の弥生後期の考古学事象

形名 様
貴重な情報、ありがとうございます。

「東海地方西部起点の拡散移住現象」ですが、参考にさせていただきます。
なお、関東の古墳時代は出雲由来の遺跡もありますね。

  • 2022/01/15 (Sat) 08:06
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