群馬に別のツングース系王家があった愚考

群馬に別のツングース系王家があった愚考(関東・東北の古代)
前回、墳長100mを超える大古墳建造には25万人以上の人員が動員されること、これらの人員を集めるには大きな権力者すなわち王が居たことが推察されることを指摘しました。事実、王冠が群馬や茨城の古墳から出土しております。
関連し、今回は、さらに検討し、関東地域には西日本とは別のツングース系王家があったこと、中心は群馬だったことについて愚考します。
まず、関東は、河川の関係から3地域に分かれること、その地域分類は地方言葉と一致することが知られております。それらは、群馬・埼玉、栃木・茨城、千葉・東京・神奈川の3地域になります。詳しくは「大河が古代の関東を分けた」lを参照願います。
そこで、前回の表を基に、これら3地域ごとに墳長100m以上の大古墳を整理しますと下表のとおりです。


合計建造数は、茨城・栃木9基、群馬・埼玉23基、千葉・東京・神奈川11基、また、それらは、4世紀、5世紀、6世紀と連続して建造されています。おそらく、それぞれの地域に王家があり、それぞれの王家は続いていたと観ることができます。
そして、それぞれの王家が続いていたということは、争いはなく、平和な時代が続いていたと観ることができます。このことは、強力な本家があり、他に従属する2分家があったことを示唆します。
また、西日本と同じような墳長200m以上の巨大古墳ですが、墳長210mの太田天神山古墳(5世紀建造)、および209mの古丸山古墳(建造時期不明)が群馬県太田市にあります。
以上のことをまとめますと、群馬・埼玉に本家があり、その中心地は群馬県太田市だったと推察されます。
その太田市ですが、関東平野北部の中心部に当たる地域で、山裾の広大な平野部は稲作に適し、コメ生産量も多く、これらをベースに人口が増え、発展した地域と思われます。
そして、弥生時代後期に入りますと、その生産力を背景に王家が生まれ、その王家は、茨城・栃木と千葉・東京・神奈川の2地域に分家を作り、その王家が滅ぶ6世紀後半まで続いたと想像されます。
最後に、これら関東の大古墳43基を建造した王家ですが、前回指摘したとおり、西日本のヤマト王家とは別のツングース系王家と思われます。
西日本ヤマトでは、6世紀初頭(507年?)に朝鮮半島由来ツングース系王家がアイヌ系の継体王(在位:507-531年、現天皇家)によって滅ばされたことを検討してきました。当然のことですが、継体王は、次の目標に、関東のツングース系王家を滅ぼすことを考えていたと思われます。
そのときの関東のアイヌ系ですが、おそらく、彼らは中山間地に居て、畑作を受け入れ部族社会を形成し、ツングース系王家と付き合っていたと思われます。
そして、それらアイヌ系の部族長は、ヤマトのアイヌ系新王家と共同し、関東のツングース系王家を滅ぼしたと想像されます。この結果、関東のツングース系王家の王宮は破壊され、水田は奪われ、奈良・大阪と同じような道を歩んだと思われます。
以上の結果、関東の王家の遺物は古墳だけ、しかも埋蔵者不明となったと想像されます。もし、争いが無かったとするなら、例えば常陸国風土記がありますが、それら古墳建造者のことが残されていてもおかしくありません。
ツングース系王家を滅ぼした関東のアイヌ系豪族は、強奪者でした。その恥ずかしい内容は風土記に書けない内容だったのが真相と思われます。
また、関連し、継体王(在位:507-531年)に始まったアイヌ系新ヤマト朝廷による関東・東北の支配ですが、それは、阿倍 比羅夫の蝦夷征服(北征、658年)に始まりますが、これには関東の地域は入っていません。この時代(7世紀初頭)、すでに関東には国造(後の国司)が置かれ新ヤマト朝廷の支配下にあった感じです。
これらことは、新ヤマト朝廷と関東の蝦夷豪族が、協力して関東のツングース系王家を6世紀後半に滅ぼし、その報償として関東の豪族は国造の地位が保証されたことを示唆します。
関連し、6世紀の関東のツングース系王家の様子について上トップに示しました。
なお、群馬に、朝鮮半島由来の王家があったことを、遺跡出土物から紹介しているブログ記事「甲冑王とかみつけの里」がありましたので、参考までに紹介しますと、次のとおりです。
嘘みたいな本当の歴史話㉝
皆さん、今から6年前、群馬県渋川市の榛名山(はるなさん)の麓で国道工事に伴う遺跡発掘調査が行われました。そこから大変珍しい古代人の人骨が出土した事はご存知でしょうか?何が珍しいかと言うと、前例のない日本で初めて鉄の甲冑をまとった人骨が出土したからです。では、この鉄の甲冑をまとった人物はいったい何者なのか?武人?貴族?はたまた農民?ここに大きな秘密が隠されておりました。今日はこの人物像のお話をしようと思います。
この人物は男性で、西暦500年代初頭に大噴火した榛名山の火砕流に巻き込まれて亡くなった事がわかりました。規模は長崎雲仙普賢岳で起きた火砕流の30倍とも言われております。では一体どんな人物だったんでしょう?その謎を解くカギがとある古墳にありました。
この遺跡から南に16km離れた所に、「上毛野はにわの里公園(かみつけのはにわのさとこうえん)」がありますが、その公園内に「保渡田八幡塚古墳(ほどたはちまんづかこふん)」と言う大型の前方後円墳があります。この古墳は既に盗掘されており被葬者の人骨はありませんでしたが、発掘調査を行った結果大量の埴輪が出土しました。その埴輪を復元してみると、生前の古墳の被葬者(王様)の生活の姿を現した物であった事がわかりました。
埴輪は狩猟をする王、神事をする王、隊列を組む王、鳥を方にのせた王他、様々な王の生活の場面を表したもので、その服装が極めて珍しく朝鮮半島の騎馬民族スタイルに酷似しており、諸説色々ありますがこの古墳の被葬者は朝鮮半島から来た騎馬民族の王様だった可能性が極めて高いと言う事がわかりました。そしてここには、甲冑をまとった埴輪もありました。関東付近で多く出土する甲冑をまとった武人の埴輪(NHKのはに丸くんや特撮映画の大魔神の様な埴輪)、元々王に仕えた武人と思われておりましたが、鎧が決まって出土するのは古墳の石室、つまり鎧をまとう者は武人ではなく王だと言う事が近年わかりました。つまり鎧をまとった埴輪も王だと言う事です。
では火砕流で亡くなった甲冑男性はと言いますと、古墳の王の埴輪と甲冑がきわめて似ており、男性はやはり武人ではなくこの付近を治めていた王と言う事がわかりました。そしてその後の科学的な調査の結果、この人骨は成人男性で年齢は40代前半、身長は164cmだと言う特徴がわかり、また歯の成分から長野付近で幼少期を過ごした人物、つまり長野県付近で生活経験があった事がわかりました。更に大腿骨が太かった事から馬に常時乗っていた事もわかり、結論からこの男性は、朝鮮半島渡来人で長野付近を経て群馬に移住してきた騎馬民族の王様だったと言う事が判明しました。
実は群馬県には古代、多くの渡来人がやってきて、その痕跡を現代にも多く残してくれております。(引用終了)。
以上の記事は、まさに、群馬に朝鮮半島由来のツングース系王家があったことを示すものと思われます。

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