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吉備国はツングース系王家の本家だった

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レインボー

吉備、ヤマト、日向の古墳時代


吉備国はツングース系王家の本家だった(西日本の古代)

先に、出雲地域には、四隅(よすみ)と呼ばれる古墳が3世紀に多数建造され、かつ、日本最大の青銅器をもった王家が現れたことを検討しました。このことは、出雲に朝鮮半島由来のツングース系王家があったことを示唆します。

しかし、その後は100m超える大古墳建造は2基だけ、またそれらの古墳は2世紀離れた5世紀の建造時期で、これらのことから推察しますと、出雲の王家は移住したのではないかと思われます。その理由として、山陰地域は狭く、農業生産が少なく、出雲王家の人たちは、より広い展開を求め、他地域へ移住した可能性が高くなります。

その移住先の第一の候補は隣の山陽地域(特に、岡山県)と北陸地域が有力です。岡山については、弥生時代遺跡数が中国地域で最大であります。一方、北陸の流れは関東に続いていることは、これまで検討してきたとおりです。

関連し、今回は、山陽の中心地だったと思われる吉備国(岡山)の古代について愚考します。

まず、Wikipedia によれば、吉備の古代は次のとおりです。


吉備は古代、畿内や出雲国と並んで勢力を持っていたといわれ、巨大古墳文化を有していた。また、優れた製鉄技術があり、それが強国となる原動力であったとされる。『古事記』中巻、孝霊天皇の段などに兵庫県の加古川以西が吉備であると捉えられる説話があり、加古川を国境としていた時期があると考えられている。

弥生時代後期の後半に(2世紀初めから3世紀中頃まで)、この地方独特の特殊器台・特殊壺が作られ、綾杉紋や鋸歯紋で飾られ、赤く朱で塗った大きな筒形の土器だった。これは部族ごとの首長埋葬の祭祀に使われ、弥生墳丘墓(楯築弥生墳丘墓)から出土している。また最古級の前方後円墳(箸墓古墳・西殿塚古墳)からも出土しており、後に埴輪として古墳時代に日本列島各地に広まった。また吉備は弥生時代からの塩の生産地だった。

この時代は日本では豪族が朝鮮から鉄素材を入手していたが、新羅の援助を受けていた吉備では鍛鉄技術が進み、入手した材料から鉄製品が作られた。古墳時代に入ると吉備では鉄鉱石を採掘し、中国地方ほかで製鉄も始まったが、弥生時代に製鉄がすでに始められたと考える説もある[2]。

古墳時代、吉備地方の現在の岡山平野南部は内海となっていた(吉備穴海、もしくは吉備内海と呼ばれる)。4世紀からこの内海の近くに多数の前方後円墳が造られた。『記紀』や神社伝承においても崇神天皇による四道将軍の遠征によって彦五十狭芹彦命・稚武彦命兄弟や鴨氏族が吉備に進出したことが記録されている。・・・
(引用終了)

また、山陽地域の100m以上の大古墳の墳長と建造時期は下表のとおりです。

山陽地域の墳長100m以上の大古墳

以上の情報とこれまでの拙ブログ情報から山陽地域古代状況についてまとめますと次のとおりです。

まず、吉備には、縄文時代の陸稲栽培が知られており、これは、稲作民族のマレー系の人びとが持ってきたものと思われます。また、弥生時代になると塩の生産地であったことが知られております。弥生時代後期には、その時代最大の墳丘墓を持つ「楯築遺跡」が知られております。これは独特の巨石が用いられております。

稲、塩、巨石についてはマレー系の人びとの影響が感じられます。詳しくは「弥生時代最大墳丘墓のある岡山県の「楯築遺跡」と邪馬台国」を参照願います。

弥生時代後期、そこへ、出雲由来のツングース系が侵入し、製鉄を始め、初期のツングース系王家を創り、巨大古墳の建造が始まったと推察されます。

100m以上の山陽地域の大古墳ですが、兵庫に3基、岡山に6基、広島と山口は0基です。兵庫の3基はすべて200m以下ですが、岡山には300m以上が1基、200~300mが2基、100~200m以上が3基であり、岡山は山陽地域の中心地だったと思われます。

そして、ヤマト王権との関係ですが、古墳建造が3~6世紀に連続的に建造されていることから推察しますと、争いは無かったことが予想されます。

また、ヤマトの古墳には、吉備国ルーツの埴輪(円筒埴輪)が多数発見されていますので、おそらく、吉備国の人たちがヤマトに運んだものと思われます。

以上のことから、まとめますと、中国地域の古代は次のようであったと思われます。

まず、吉備国はマレー系の人びとが居て、塩生産や稲作で繁栄し「楯築遺跡」を作りました。

一方、出雲では、朝鮮半島由来ツングース系民族が侵入し、稲作で繁栄し出雲王家が創られ、四隅古墳や青銅器生産で2~3世紀に繫栄しました。しかし、農耕地は狭く、近隣の北陸や山陽地域に移住しました。

ツングース系は長身であり戦いに強く、先住民族のマレー系を追い払い、王家を創り、大古墳の建造を開始したと思われます。

そして、その仲間は、さらにはヤマトまで移住し、近畿のツングース系をまとめ、強大なヤマト王権を作ったと推察されます。そして、吉備はツングース系王家の本家だったが、本家がヤマトに移転した後は分家として栄えたと推察されます。

一方、日向(宮崎)にも大古墳があります。それら古墳出土の円筒埴輪は吉備国由来と推察されますので、宮崎の古墳も、吉備国の末裔の建造だったと思われます。なお、この宮崎の古代については次回検討予定です。

以上、総合しますと、出雲から始まったツングース系は、隣の吉備国、そして、さらにはヤマトや宮崎に展開し、最後は、本家はヤマト、吉備と日向(宮崎)は分家という関係ができあがったと思われます。

関連し、ヤマトのツングース系王家の発展経過を上トップ図に示しました。


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レインボー
Posted byレインボー

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形名
陸稲栽培と水稲栽培

こんにちは。
<吉備には、縄文時代の陸稲栽培が知られており、これは、稲作民族のマレー系の人びとが持ってきたものと思われます。
■現代では陸稲も水稲も植物学分類上は同じものだと言われていますね。私が生まれた昭和30年代には親父が水田で水稲を作り、畑で陸稲を作ってましたが、種籾は同じものを使っていたと思います。
縄文時代は陸稲が主流と聞きます。この陸稲も南アジアからの移動だとすると、縄文人が南アジア移民の種籾を受け入れた事と思います。さて、疑問なのは縄文時代に移動した南アジア人の文化は陸稲栽培だったのでしょうか?それとも水稲栽培?縄文人は南アジア人の栽培方法も含めて受け入れたはずですから、前者の可能性があります。しかし、一方、弥生時代前期中期の九州水田遺跡は水稲栽培の証拠でもあります。これは、南アジア人の移動は断続的に続き、その間に陸稲栽培から水稲栽培に移行したと考えればよいのでしょうか?または、別の解釈がありますでょうか?

  • 2022/02/17 (Thu) 10:33
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レインボー
レインボー
Re: 形名様、陸稲栽培と水稲栽培

形名様
コメント、ありがとうございます。

日本への稲作導入の経過ですが、拙ブログは次のように紹介しております。

稲作のルーツ:インドネシア
稲導入経過、陸稲:縄文時代に沖縄経由か?、マレー系A、岡山などへ
稲導入経過、水田稲作:弥生時代、中国南部経由、マレー系B(中国越族)、北九州へ

なお、拙ブログ記事、カテゴリの「稲と鉄」、「稲作と日本人」を見ていだだきますと、さらに詳しい情報が得られます。

  • 2022/02/18 (Fri) 08:14
  • REPLY
形名
ありがとうございます。

レインボーさん
私の知りたい点は2018~2019年頃の記事の中に纏まっていましたね。
ありがとうございます。

  • 2022/02/19 (Sat) 09:22
  • REPLY
レインボー
レインボー
Re:形名様、 ありがとうございます。

形名様
追加コメント、ありがとうございます。
参考になれば幸いです。
草々

  • 2022/02/20 (Sun) 08:00
  • REPLY