宮崎の古墳群とツングース系王家滅亡愚考

宮崎の古墳群とツングース系王家滅亡愚考(西日本の古代)
私こと、宮崎には仕事の関係で7年間滞在しました。そのとき見たのが西都原古墳群です。多数の小古墳のなかに100mを超える大古墳もあり、なぜ、古墳時代の中心地のヤマトから離れた宮崎の地に古墳群があるのか謎でした。
関連し、今回は、東九州(大分、宮崎、鹿児島)に大古墳を建造したのはヤマトと同じツングース系王家だったこと、関連し、宮崎の王家滅亡について愚考します。
まず、古墳時代の西日本について整理しますと、次のとおりです。
北九州には南方由来の稲作民族マレー系の倭国があり、同じマレー系の百済と協力し、北の大国の高句麗と戦っていました。
一方、近畿・中国地域には、ヤマト(奈良)に朝鮮半島由来のツングース系王家があり、その支配はツングース系の多い四国と東九州まで及んでいました。このため、北九州倭国は、北の高句麗だけでなく東九州のツングース系とも対峙していたと思われます。
関連し、東九州地域の100m以上の大古墳(前方後円墳)をWikipediaの古墳一覧からまとめますと下表のとおりです。

この表から、大古墳は、大分に2基、宮崎に6基、鹿児島に2基、合計10基あり、3世紀末から建造が始まり、5世紀に頂点を迎えたと判断されます。特に、宮崎はその中心地で、女狭穂塚古墳と男狭穂塚古墳は墳長が176mで九州地域として最大で、宮崎にも王家があったと推察されます。
それら古墳から大量の埴輪(円筒土器が大半)が出土しておりますが、それら円筒土器は吉備(岡山)由来と言われております。
そして、6世紀には大古墳建造は見られません。この過程は、ヤマト(奈良・大阪)と吉備のツングース系王家の盛衰と同じです。
そこで想像しますと、次のことが考えられます。
弥生時代、まず、ツングース系民族が近畿・中国と同じように東九州にも入ってきて、持って来た鉄製農具を使い、低地平野部で稲作を行い、発展します。特に、宮崎は平野部が多く、気候は暖かく雨が多く稲作の適地で、最も人口が増え栄えた地域と思われます。
そして、5世紀には大古墳が、大分で1基、宮崎で3基、鹿児島で1基作られ、最盛期を迎えたと思われます。
それらの建造には、縄文時代から中山間地に居たアイヌ系が協力し、アイヌ系の中には豪族となっていった者もあったと思われます。特に、宮崎は縄文遺跡も多くアイヌ系が多かった地域でした。詳しくは「弥生時代の九州の中心地は福岡と宮崎だった」を参照願います。
すなわち、西日本の5世紀は、ツングース系王家が最も栄えた時代で、東九州、特に宮崎も同様に繁栄したと思われます。そして、それらをまとめていたのが大阪のツングース系王家だったと思われます。
それらの過程は次のようだったと思われます。
まず、ツングース系王家のルーツは出雲王家と拙ブログでは観てきました。その出雲王家は南の吉備(岡山)に移り、さらに東の近畿に移り、ヤマトに強大なツングース系王家を創りました。
一方、吉備から宮崎への流れもありました。宮崎の古墳から出土している埴輪を見ますと円筒土器が大半です。その円筒土器のルーツは吉備ですので、宮崎の大古墳建造王家もヤマトと同じく出雲・吉備由来のツングース系だと判断されます。すなわち、ヤマト、吉備、宮崎の王家はツングース系王家として連携していたと推察されます。
しかし、古墳建造の労役は厳しくなっていったのが建造の多かった5世紀と思われます。中には、大阪の巨大古墳建造に動員された者もあった可能性もあります。当時は、構造船の開発も進み、それが可能になった時代でした。詳しくは「巨大古墳建造とツングース系王家の盛衰」を参照願います。
そして、古墳建造の労役は厳しく、それが民衆の怒りとなり、東九州のツングース系王家は滅ぼされたと結論されます。
そこで、気になるのが、誰が宮崎のツングース系王家を滅ぼしたかですが、三人の主役が考えられます。
第一の主役はアイヌ系継体王(在位:507-531年)です。宮崎は最初の天皇すなわち神武天皇発祥の地として日本書紀にも紹介されています。最近のDNA研究(Y染色体ハプログループ分類)で、現天皇家はアイヌ系で、初代は継体王であることがほぼ確実です。すなわち、神武天皇=継体王になります。
そのことから想像しますと、継体王が出身地の福井から密かに宮崎(日向)に来て仲間のアイヌ系を集めツングース系王家と戦い、その後、宮崎の仲間を引き連れ東征した可能性があります。あるいは、もともと継体王は宮崎の中山間地(高千穂)出身だった可能性もあります。
しかし、この可能性は単なる推測であり、可能性は低いと思われます。
第二の主役は倭王「武」です。当時、北九州は倭王「武」の時代で、朝鮮半島南部も支配する強大な国になっていました。倭王「武」の時代、敵対する勢力は北にツングース系の高句麗があり、東にツングース系のヤマト王朝がありました。このため、目先の宮崎のツングース系王家と戦う理由は十分にありました。
倭王「武」について、詳しくは「古代の大王は天武天皇と北九州倭王「武」愚考」を参照願います。
第三の主役は南九州の隼人です。ブログ仲間の「鬼と仏の国東半島めぐり」の最近記事「養老年という時代-隼人討伐その後」によれば、奈良の大和朝廷が720年に大隅・日向の隼人討伐を大分の「宇佐宮」に命じたとあります。すなわち、宮崎のツングース系王家が滅びた後、宮崎の支配者になった者は隼人だったことになります。言い換えますと、南九州の隼人が宮崎のツングース系王家を滅ぼしたことになります。
どれが真実なのか、後ほど詳しく検討したいと思いますが、拙ブログでは、倭王「武」と隼人と土着のアイヌ系豪族が連合し、強大なツングース系王家と戦ったと観ています。巨大なツングース系王家を倒すのは単独では不十分で、連合して戦った可能性の方が高いと見ています。
関連し、古墳時代の東九州と奈良・大阪の関係について、上トップ図に示しました。

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