ヤマトのツングース系王家滅亡の衝撃と北九州倭国
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レインボー

ヤマトのツングース系王家滅亡の衝撃と北九州倭国(西日本の古代)
現天皇家のルーツはアイヌ系であることがDNAから分かったこと、ヤマトのツングース系王家はそのアイヌ系の継体王(在位:507-531年)によって6世紀初頭に滅ぼされたこと、その影響は関東および東九州地域にも及んだこと、すなわち、これらの地域では、ツングース系からアイヌ系や隼人の豪族に支配者が変わっっていったことを検討してきました。
一方、北九州地域については南方系稲作民族のマレー系主体の倭国が実在したことを検討してきました。
関連し、今回は、ヤマトの巨大古墳建造王家滅亡が北九州地域(福岡、佐賀、長崎、熊本)へ及ぼした影響について愚考します。
まず、北九州の100m以上の大古墳の建造についてWikipediaの古墳一覧を参考にまとめますと下表のとおりです。

マレー系倭国のあった北九州地域にも3~6世紀後半の間に大古墳が建造されています。マレー系倭国が建国されたのは4C以降と思われます。詳しくは「日本書紀と空白の4世紀の関係愚考」を参照願います。
すなわち、4C以降の大古墳建造の主体は、ツングース系王家とは関係ない可能性があり、単に大古墳は権力の象徴として建造された可能性があります。例えば、ヤマトのツングース系王家が滅びた後の6Cにも建造が行われていますが、これら大古墳は北九州倭国の王の墓と見ることができます。
例えば、北九州最大の岩戸山古墳は筑紫君(つくしのきみ)磐井の墓と言われております。筑紫君磐井は、北九州地域を支配した王(倭国王、筑紫の君)とも言われておりますが、528年の磐井の乱を起こしたことで有名です。
磐井の乱は、北九州倭国と近畿の大王となった継体王(在位:507-531年)の戦いで、決着はつかなかったと拙ブログでは観ています。詳しくは「倭国の磐井王と畿内の継体王と百済の部寧王の関係」を参照願います。
一方、ヤマトのツングース系王家がアイヌ系継体王によって滅ぼされたのは6世紀初頭と思われますが、その時の北九州倭国の王は倭王「武」でした。拙ブログで何度も紹介していることですが、倭王「武」は朝鮮半島の南部をも支配した大王でした。
この結果、その朝鮮半島南部の「新羅」から倭国に朝貢があったことが新羅の歴史書に記されています。この朝貢は、新羅と倭国王との関係を示すもので、そのことが上述の「磐井の乱」の一因となったことをほのめかすことが日本書紀にも書いてあります。
また、宮崎のツングース系王家滅亡に関し、倭王「武」が関係したことは前回紹介のとおりです。
以上のことから6世紀の北九州の状況を検討しますとは、北九州には倭国があり、ヤマトのツングース系王家滅亡の後も健在だったと判断されます。
そして、ツングース系王家がアイヌ系継体王によって滅ぼされた後、残された対立者はヤマトの継体王と北九州の倭国であり、それが倭国とヤマトの対立(磐井の乱)の背景だったと思われます。
まとめますと、継体王によってヤマトのツングース系王家が滅ぼされました。一方、北九州では倭国が続いていました。継体王の次に目標は北九州倭国を滅ぼし日本を統一することだったと思われます。しかし、このときの倭国王は筑紫君磐井で、その戦いは決着がつかなかったと判断されます。
なお、北九州倭国が滅んだ時期は、白村江の戦い(663年)で大敗した直後でした。詳しくは「白村江の戦いにおける海戦の真相」を参照願います。
関連し、北九州倭国とヤマトの継体王との関係を上トップ図に示しました。

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