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神武天皇は継体王だった

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ツングース系王家滅亡の経過


神武天皇は継体王だった(日本書紀は創作)

これまで、DNA研究(Y染色体ハプログループ分類)の結果、現天皇家のルーツはアイヌ系、初代は継体王(在位:507-531年)、その継体王が日本書紀の神武天皇に当たることを検討してきました。

なお、現天皇家のルーツについては「天皇家のルーツはアイヌ系の継体王」を参照願います。

関連し、今回は、神武天皇=継体王について、さらに検討します。

まず、壬申の乱(672)に勝利し、日本を最初にほぼ統一した天武天皇の命により、偉大で万世一系の天皇家をテーマ(主題)に日本の正史と言われる日本書紀は作られました。

この天皇家を褒めたたえるという目標のため、巨大古墳を多数建造した朝鮮半島由来のツングース系王家、さらには北九州にあった邪馬台国や倭国の存在は無視するという方法が取られました。詳しくは「歴史的事実で日本書紀に書かれていないこと」を参照願います。

また、偉大な天皇家とするため、天孫降臨という方法を用い、天皇家はアマテラスという太陽神の子孫であることとし、その天孫降臨の場所を宮崎県高千穂としました。その流れは、アマテラス(神話)・・・山彦(神話)・・・神武(現世)という流れです。

また、ツングース系王家には、本家のヤマトのほか吉備と日向に分家があり、継体王が大王となるためには、これら本家と分家を滅ぼす必要があったことを拙ブログでは検討してきました。

まず、日本書紀では、神武東征の始まりは宮崎でした。

何故、宮崎の山間地(高千穂)なのかですが、おそらく現天皇家と同じアイヌ系が多く居たところ(山彦の名前の由来とも関連)、一方、平地は古墳が多くツングース系王家の分家があったところであり、宮崎はその分家が最初に滅びた場所だったため、神武東征の始まりの場所としてふさわしい場所に選ばれたことと思われます。

しかし、宮崎のツングース系王家が滅びた後、先に紹介しましたように南九州の隼人が支配していた可能性が大で、ヤマト朝廷の宮崎支配は8世紀になってからになります。

また、この宮崎のツングース系王家滅亡には、縄文系の多かった南九州のアイヌ系や隼人の人びと、さらには北九州倭国が加わった可能性もあります。

当時、北九州倭国は、朝鮮半島南部をも支配する倭王「武」の時代でした。次の目標として、隣にあった宮崎のツングース系王家滅亡があったと思われます。

倭王「武」について、詳しくは「古代の大王は天武天皇と北九州倭王「武」愚考」を参照願います。

その北九州倭国と継体王の連合の可能性として、継体王はマレー系の百済と最初に外交したことが挙げられます。当時、北九州倭国と百済はマレー系で、両者は兄弟の関係にありましたので、継体王と北九州倭国と百済の3者連合があったことになります。

この連合を示すものとして、百済「武寧王」が継体王即位(507年)前の503年に継体王に贈った鏡があります。さらには、熊本産のピンクの墓石があります。ピンクの墓石は当時流行だったようで、熊本からヤマトに運ばれました。それを可能にしたのは上記の三者連合だったと思われます。詳しくは「倭国の磐井王と畿内の継体王と百済の部寧王の関係」を参照願います。

残念ながら、倭王「武」については日本書紀に書いてありません。これは、冒頭で紹介しましたように、万世一系という天皇像に合わないため、倭国を故意に無視して日本書紀は創られたためです。

そして、宮崎のツングース系王家が滅びた後、神武東征の次の目標地は吉備(岡山)の支配になりました。吉備については、巨大古墳の多いことから、これもツングース系王家の分家があったところと拙ブログでは観ています。詳しくは「吉備国はツングース系王家の本家だった」を参照願います。

日本書紀では、神武天皇は吉備に長期間(8年)滞在したとありますが、吉備は大国であり、その征服は簡単でなかったと読み取れます。

おそらく、継体王=神武天皇は出身地の福井から仲間を集め吉備を攻め、さらには、倭王「武」はマレー系であり、吉備はもともとマレー系居住地であったことから推察しますと、吉備の攻撃にも協力した可能性があります。すなわち、吉備は、東から継体王、西から倭王武に責められ、滅亡したと思われます。

ついで、継体王はヤマトに向かいました。ツングース系王家の都のあったところで、神武東征によれば、最初は西側から向かい撃退されます。次に、紀伊半島南端を回り、熊野に上陸し、ヤマト支配に成功します。

三重など東海地域は縄文遺跡の多いところですが、そのことから推察しますと、アイヌ系の仲間も多く、アイヌ系の継体王は戦いやすかった可能性があります。さらには、岐阜・長野など縄文勢力を集め、総攻撃をした可能性もあります。

以上、神武天皇=継体王がツングース系王家を滅ぼし、新アイヌ系王家を創った経過について愚考しました。しかし、神武東征(日本書紀)では、宮崎での戦いもなく、かつ、吉備での戦いもなく、神武東征のほとんどは創作だったことになります。

関連し、それらの経過について上トップ図に示しました。


図では、倭王「武」の協力があったことを紹介しております。また、薩摩を含む南九州の隼人は宮崎(日向)のツングース系王家を滅ぼすことに協力したとしております。強大なツングース系王家を倒すには、継体王だけではできなかった戦争と思われます。


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