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継体王と百済「部寧王」の関係(西日本の古代)

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百済・倭国・継体王の関係


継体王と百済「部寧王」の関係(西日本の古代)

最近のDNA研究(Y染色体ハプログループ分類)は、現天皇家のルーツはアイヌ系継体王(在位:507-531年)であることを明らかにしました。

これは、天皇家のルーツは朝鮮半島由来の弥生人(ツングース系)であったという通説を否定するもので大発見と思われます。

拙ブログでは、このアイヌ系継体王の登場は、古墳建造に従事させられてきたアイヌ等の縄文系の人びとの反乱の結果と観てきました。

一方、北九州倭国は百済と合同して北のツングース系大国「高句麗」と戦ってきたことは知られているところです。北九州倭国と百済は同じ中国南部由来のマレー系稲作民族です。両国が協力関係にあるのは、同じ民族ですので不思議なことではありません。

因みに、百済は一般に「ひゃくさい」と読みますが、日本読みでは「くだら」です。なぜ「くだら」なのか謎に満ちていましたが、拙ブログでは、その呼称はマレー語に由来し、意味はKudara(同胞、兄弟)、すなわち、百済と倭国は「くだら」(同胞、兄弟)だったと理解しました。詳しくは「古代国家「くだら」の国名由来」を参照願います。

一方、ヤマトのツングース系王家に対しては、アイヌ系の継体王とマレー系北九州倭国の倭王「武」が共同して戦い、百済が陰で両者を支援していたことを拙ブログでは検討してきました。

前置きが長くなりましたが、関連し、今回は、継体王と百済の関係について検討します。

これらの関係について「倭国の磐井王と畿内の継体王と百済の部寧王の関係」で拙ブログで紹介したことがありますが、今回はさらに踏み込みます。

まず、関連の記事として、「古代史の謎「継体天皇新王朝説」を追う!(最終回)[百済王からの鏡] 」がありますので、紹介しますと次のとおりです。


 隅田八幡神社(すだはちまんじんじゃ=和歌山県橋本市)に伝わる鏡には「癸未(みずのとひつじ)年八月」で始まる四八文字が刻まれています。
 「癸未年」を西暦503年とし、そこにある「男弟王」を「ホド王=継体」と解釈しますと、503年に百済(朝鮮)の武寧王(ぶねいおう)が大和の忍坂宮(おしさかのみや=桜井市)にいた継体にその鏡を贈ったと理解できます。
 ここで問題になるのが癸未年です。
 その年は武烈天皇の父とされる仁賢(にんけん)天皇の治世だからです。
 百済の王が外交交渉相手として鏡を贈っているくらいですから、継体はその時点で皇位継承者とみられていたと考えられます。
 そうなりますと、継体が地方豪族であるはずはなく、仁徳朝の皇統のどこかに繋がる王だったという話になるのです。
 ただし、皇族の一人とはいえ、傍流に位置し、近江や越前などの地方豪族に養育される立場であったと考えられます。
 仁賢の次に武烈が即位しますが、『日本書紀』に凶暴性が記載されるとおりの天皇であったのだとしたら、早くから、その次の天皇として継体に期待がかかり、だからこそ百済の王が彼に接近を図ろうとしたともいえます。
 そうして武烈の崩御後、政権内の派閥争いなどがあって皇位継承は順調にいかず、混乱が生じた――そう結論付けることはできますが、あくまで仮説にすぎません。
 仁徳朝と継体朝の間に皇統の断絶があったのかどうか、邪馬台国論争とともに大きな古代史の謎といえるでしょう。
(引用終了)

本記事は、503年に部寧王が継体王に鏡を送った記事ですが、このことは、継体王が大王となる507年以前から両者には関係があったことを示します。拙ブログでは、継体王を百済と初めて外交したヤマト朝廷の王として紹介してきましたが、大王になる前から百済と関係があったことになります。

また、このとき、継体王は男弟王と部寧王から呼ばれております。これは、部寧王の弟の扱いです。すなわち、継体王は部寧王の弟分であり、応援を得ていたことになります。そして、507年に大王となる前に、大王になる予定であったこと、あるいは、ツングース系王家を滅ぼし、すでに大王となっていたことが伺えます。

当時、北九州倭国と百済は同盟関係にあり、同盟の使者として部寧王は北九州倭国に滞在し倭王「武」と名乗っていたことが知られております。詳しくは「倭王武は百済の武寧王になった」を参照願います。

これらのことから想像しますと、倭王「武」は、継体王と共謀しヤマトのツングース系王朝と戦い、その王朝が滅亡されるのを見て、本国(百済)に帰り、502年に部寧王を名乗り、503年に仲間の継体王に鏡を送ったのではないかと思われます。

まとめますと、継体王はツングース系王朝を滅ぼしヤマトの新大王と507年になりましたが、その陰には北九州倭国と百済の支援があったものと思われます。強大なツングース系王朝を倒すためには継体王単独の力では不可能だったと思われます。

関連し、何度も指摘していることですが、このことは日本の正史と言われる日本書紀には書いてありません。その理由は、万世一系の偉大な天皇を題に日本書紀は描かれていますので、それに反すること(北九州倭国の存在等)のことは書けない背景があったことと思われます。

関連し、上トップ図に、倭王「武」、百済「部寧王」、継体王の関係について紹介しました。



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レインボー
Posted byレインボー

Comments 2

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のんちゃんパパ
整合性の高い学説ですね。

 マレー系の百済がツングースと敵対していたのは事実ですし、アイヌ系とは関係性が良好であったわKですから、継代天皇が百済と協力していたと考えるのは自然です。敵の敵は味方ですから。
 同時に、日本でも例えばたそがれを黄昏と記載していますが、元々たそがれとは、「誰そ彼?」であり、薄暗くなって「あいつは誰だ」と言う状況をたそがれと呼んでいました。これに中国の黄色がかった暗さという黄昏を当て字にしているのが黄昏です。
 もともと百済のマレー系の人々を兄弟と言う意味の「kudara」と呼んでいたなら、建国後の百済を「くだら」と当て字したのも不思議はありません。
 言語学的にも最も蓋然性の高い学説だと考えますし、DNA分析で継体天皇がアイヌ系である科学的証明からも最も整合性が高い見解だと思います。

  • 2022/03/21 (Mon) 13:14
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レインボー
レインボー
Re: のんちゃんパパ様、整合性の高い学説ですね。

のんちゃんパパ様
嬉しいコメント、ありがとうございます。整合性の高い学説とはありがたいです。

日本書紀は、アイヌ系王家は万世一系の偉大な王という観点が強く、マレー系倭国は無視されてると感じるこのごろですが、
調べると、王家確立には百済、北九州倭国の協力が裏にあったというのが真相と思われます。
草々

  • 2022/03/22 (Tue) 08:55
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