古墳埋葬者は何故不明なのか愚考

古墳埋葬者は何故不明なのか愚考(古代史の問題)
DNA研究(Y染色体ハプログループ分類)の結果、現天皇家はアイヌ系であることがわかりました。そして、初代のアイヌ系大王は継体王(在位:507-531年)であることがほぼ確実です。そのことから、古墳時代のツングース系王家(3~5世紀)は継体王によって滅ぼされたと判断されます。
一方、DNA以外にそのことを示す根拠の一つとして、近畿では継体王以前の陵墓は埋蔵者不明であることが指摘されます。王陵があったことは確かですが、埋葬者関連の資料がまったく残っていないのです。
例えば、日本書紀や古事記に王名が書いてありますが、それら王の実在を示す資料がありません。例えば、世界遺産「仁徳天皇陵」がありますが、世界最大の規模の王陵ですが、記録がありません。詳しくは「世界遺産「仁徳天皇陵」で適切か」を参照願います。
関連し、古墳埋葬者が何故不明なのか、このことについて今回は愚考します。
埋蔵者不明の理由としてこれまで指摘してきたとおり、2点あると思われます。
1点目は、ツングース系王家があったことを隠すためです。日本の正史と言われる日本書紀ですが、万世一系の偉大な天皇を主題として描かれていますので、これ以外のこと、すなわち、ツングース系王家があったこと等は書けない背景がありました。この方面は、古事記や関連する地方の歴史書(風土記)にも一貫しており、完璧です。
2点目は、ツングース系王家はアイヌ系等の豪族に滅ぼされましたが、その過程で、勝者が財産や土地(農地=水田)を強奪したことがあります。これらのことは恥ずべき行為であり、表に出せないことだったと思われます。
例えば、関東にもツングース系王家由来と思われる多数の古墳が知られていますが、すべて埋蔵者不明です。関連し、地方の古代史を著述した常陸国風土記がありますが、古墳埋葬者のことは不明です。おそらく、中央の指示で書いてはならないことだったと判断されます。
一方、古墳埋葬者が分かっている例があります。それらは著者の知る限りですが上トップの表の通りです。
まず、磐井の乱で知られている筑紫君磐井です。彼は筑紫国風土記に記載されていて、古墳建造時期も矛盾なく、ほぼ間違いないと思われます。彼はツングース系王家とは別の王家(北九州倭国)でしたが、倭国の王ではなく、筑紫君磐井としての古墳として残ったものと思われます。
次に、拙ブログで現天皇家の初代として紹介している継体王です。彼の陵墓は今城塚古墳ですが、多くの研究者の支持があり、これも間違いないと思われます。詳しくは「継体王、小さな王宮、初代天皇か」を参照願います。
最後に、丸山古墳です。丸山古墳は全長318mで奈良では最大の古墳で、かつ、建造年は6世紀後半、古墳時代最後の巨大古墳です。その横穴式石室は日本最大、強大な権力者が葬られた感じがします。しかし、埋蔵者は不明と言うから驚きです。
そこで、Wikipedia(丸山古墳 (橿原市) )を見ますと、斎藤忠(『古墳文化と古代国家』至文堂、1966年)の説として、蘇我稲目説が紹介されております。その埋葬者を6世紀後半の最大の権力者、かつ埋葬地域を支配していた者として推察しますと、蘇我稲目というのは妥当と思われます。このことについては、次回、さらに検討します。
以上の3名の古墳(前方後方墳)は、ツングース系王家が滅びた後に建造されたものです。ヤマト朝廷に認められた者だけが前方後円墳建造が認められたという説(前方後円墳体制)がありますが、ツングース系ヤマト王家が滅びた後にも丸山古墳(前方後円墳)が建造されていたことになります。これは、拙ブログで何度も指摘していますが、前方後円墳体制は無かったことを意味します。
前方後方墳体制については「前方後円墳体制はあったのか愚考」を参照願います。
まとめますと、ツングース系王家が滅びた後の古墳については埋蔵者が分かっていて、それ以前の古墳埋蔵者がまったく分からないことは、ツングース系王家がアイヌ系継体王によって507年に滅ぼされたとき、その歴史も抹殺された結果と結論されます。
関連し、日本書紀は、万世一系の偉大なアイヌ系天皇を命題に8世紀に創られましたが、そのアイヌ系天皇家の前にツングース系王家があったことを示す巨大古墳については、日本書紀の命題に合わないので無視するという大執筆方針があったものと思われます。

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