蘇我家は6世紀最大の権力者愚考

蘇我家は6世紀最大の権力者愚考(古代史の問題)
前回、奈良で最大、かつ、6世紀最大の「丸山古墳」の埋葬者は、時の権力者の蘇我稲目の墓ではないかと推察しました。
関連し、今回は、その6世紀の時代背景や「丸山古墳」の埋葬者が不明になった理由について愚考します。
まず、その時代の継体天皇(大王)と家来(有力豪族)の関係は上トップ図のとおりです。当時の政権運営は、大王と豪族の合議によって行われていました。
6世紀の大王(天皇)は8名居ますが、10年以上の在位者は、継体(507~531、24年)、欣明(539~571、33年)、敏達(571~585、14年)、推古(592~627、37年)の4名です。
そして、蘇我家は、天皇から財務担当大臣に任命されていて、高麗(こま)→稲目(570年没)→馬子(626年没)と代を重ねました。さらに、稲目は妃を欣明天皇と用明天皇に出し、かつ、それら孫は用明天皇と推古天皇となっています。
一方、当時の有力豪族は、蘇我の他に物部と大伴が大連(役軍事担当)として知られておりますが、6世紀にいずれも失脚しております。大伴氏は北九州磐井との戦い(磐井の乱 527年)で失敗し失脚したと言われています。一方、崇仏派の蘇我と廃仏派の物部の仏教導入に対する対立は有名で、この対立から戦争になり、物部は587年に滅びました。
以上の経過から、丸山古墳建造時代(6世紀後半)の権力構造を見ますと、天皇(当時は大王)に次ぐ権力者は蘇我家以外には考えられません。また、天皇と蘇我家の関係は、崇峻天皇(在位:587~592)が蘇我馬子に暗殺された経過をみても、蘇我家の方が権力者だったと見ることができます。
拙ブログでは、継体天皇は、ツングース系王家を滅ぼし、507年にアイヌ系新王家を始めたことを検討してきました。しかし、その王家は小さく、豪族の支えによって支えられてきました。詳しくは「継体王、小さな王宮、初代天皇か」を参照願います。
そして、大王家が名実ともに最高位になったのは天武天皇(在位:673~686年)からです。詳しくは「古代の大王は天武天皇と北九州倭王「武」愚考」を参照願います。
そこで、6世紀後半の巨大な丸山古墳の埋葬者ですが、以上の経過から、この時代の権力者は蘇我稲目であり、丸山古墳の埋葬者は彼以外に考えられません。
そして、丸山古墳は破壊され盗掘に会っていますが、その理由を考えますと、次のことが考えられます。
まず、天皇家を超えた振る舞いの結果、蘇我家(入鹿)は乙和の変(645年)で中大兄皇子らに滅ぼされました。このためか、その入鹿の埋葬場所はまだ特定できていません。
その前の馬子と蝦夷の墓は有名な石舞台古墳と言われております。これは、巨大な石室がむき出しになっていることで有名ですが、おそらく、蘇我家を恨む者がした仕業と思われます。
そして、その前の時代が蘇我稲目で、彼の墓は当時最大の丸山古墳で間違いないと思われますが、さらに検討しますと、その古墳は盗掘に会い、かつ、方墳部分がかなり破壊されていることが指摘されます。
この破壊は、彼の古墳は時の大王(天皇)の墓を超えており、蘇我家が滅びた後、石舞台古墳と同じように蘇我家を恨む者に破壊され、その後、管理するものは無く放置された結果と思われます。
まとめますと、6世紀最大の古墳は、6世紀最大の権力者の蘇我稲目の墓と推察されます。その墓が盗掘や破壊を受けたのは、後に蘇我家は滅び、管理者がいなくなった結果と思われます。

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