蘇我家ルーツは百済愚考

蘇我家ルーツは百済愚考(西日本の古代)
奈良最大の古墳、かつ、6世紀後半最大の古墳として知られる丸山古墳について、その埋葬者は6世紀後半最大の権力者(蘇我稲目)であることについて検討してきました。
一方、蘇我氏のルーツについては、百済由来説が出ておりますが、Wikipediaによれば、 この説は否定されています。
しかし、最近、現天皇家のルーツはアイヌ系の継体王(在位:507-531年)であることが分かりました。彼は、巨大古墳建造で民衆を苦しめたツングース系王家を滅ぼし、新たにアイヌ系王家を開始しました。そして、蘇我家は、その新たな政権で財務を担当した新豪族であったことから見ると、見方は変わってくるのではないかと思われます。
関連し、今回は、蘇我家のルーツについて、さらに愚考します。
まず、「蘇我氏渡来人説とその否定」について、Wikipedia(蘇我氏)によれば、次のとおりです。
門脇禎二が1971年に蘇我氏渡来人説を提唱した[78][79]。門脇が提唱したのは応神天皇の代に渡来した、百済の高官、木満致(もくまち)と蘇我満智(まち)が同一人物とする説で、鈴木靖民や山尾幸久らの支持[80][81]を得た一方、加藤謙吉や坂本義種らが批判[82][83]したように、史料上の問題点が多い。文化や政治の源流を何でも朝鮮諸国に求めると言った20世紀後半の風潮の中で提唱されており、根拠が不十分であるという指摘がある[84]。現在では蘇我氏渡来人説は否定されている。(引用終了)
このWikipedia記事をまとめますと、蘇我氏百済由来説は「根拠が不十分」ということで、完全な否定ではないようです。
そこで、継体王が507年にアイヌ系新王朝を開始し、同時に百済と外交したという情報を核に、蘇我家渡来人説を最検討しますと、つぎのようになります。
まず、継体王を支えた豪族として、物部氏や大友氏が知られております。彼らは軍事面を担当し、大連(おおむらじ)という役職をえています。彼らは、ツングース系王家との戦いで軍部の面で戦果をあげたのではないでしょうか。
一方、蘇我家は財務を担当し、唯一の大臣職と言われております。当然のことながら、財務には算術的能力や文書能力が必要です。そのような新王家を支える文官人材は、おそらく、宮使い経験の無かったアイヌ系豪族にはなかったことが推察されます。
こうしたなか、蘇我家は、当時、朝鮮半島で最も文化的であった百済で似たような文官職にあり、財務担当者として継体王に請われて来たのではないでしょうか。関連し、継体王は、最初に文字を導入した王としても知られており、百済から五経博士が来ていたことが知られております。
以上の経過から、蘇我家は、五経博士に先んじて日本に来て、始まったばかりのアイヌ系王朝の財務大臣という職を得て、国の政治に関わったものと理解するのが妥当と思われます。アイヌ系の継体王朝は始まったばかりで、その財務大臣に異を唱えるアイヌ系豪族はなく、その地位を生かして勢力を伸ばしたものと思われます。
さらに、継体王時代、蘇我氏は蘇我高麗(こま)の時代で、その2代目の稲目は二人の娘を妃に出した豪族です。おそらく、蘇我氏は百済系美男美女の家系で、娘も美女だったので、そういうことができたのだと思われます。
拙ブログでは、百済をマレー系稲作民族の国として観てきましたが、マレー系美女についても検討してきました。例えば「丸顔、博多美人のルーツ」や「倭人の素顔が見つかった(傾国の美女西施はマレー系)」参照願います。(下図参照)

関連し、その時代、百済大王として部寧王が知られております。ブログ仲間の「KOREA駐在おやじの韓国紹介」の記事に「部寧王像」が出ていましたが、紹介させていただきますと、次の写真のとおりです。

凛々しいハンサムな武人の顔立ちです。おそらく純系のマレー系ではなく、中国人との混血と推察されます。
蘇我高麗が部寧王のようなハンサムであったか確定できませんが、蘇我高麗が、百済出身で、この像のような顔立ちだとすると、その2代目の稲目もハンサム、その娘は百済美人として天皇家の妃となった可能性があります。
また、蘇我高麗(そが・こま)という名前もマレー系百済出身の感じがします。例えば、「ソガ」に近い言葉に「サガ」(美しいもの、英雄)があります。また名前の「コマ」は後の朝鮮半島の高麗国と同じです。
蘇我家は、高麗→稲目→馬子→蝦夷→入鹿(滅亡)となりますが、蝦夷(えみし)の名前をどう解釈するかがポイントとなります。蘇我家は馬子・蝦夷の時代が絶頂期と言われますが、おそらく、蘇我氏は、もともとは百済出身であるが、多数派のアイヌ系(蝦夷系)の名前を持つことによって、より支配を広げようとしたのではないかと推察されます。
まとめますと、蘇我家は、財務に優れ、文字(万葉仮名)を使い、かつ、王妃を出し、天皇家(大王)を支え、勢力を伸ばしました。これらのことは、当時のアイヌ系新王家を支えたアイヌ系豪族にはなかったもので、蘇我家のルーツは百済という観方は妥当と思われます。
関連し、上トップ図に蘇我家のルーツについて示しました。

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