日本人の宗教と天皇家の関係愚考
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レインボー

日本人の宗教と天皇家の関係愚考(天皇家のルーツと日本文化)
日本人の思考様式は先進国の欧米とは異なること、かつ、歴史的に多大な影響を受けた中国とも異なることについて、拙ブログではカテゴリ「縄文思想と日本人」で33回ほど検討してきました。
一方、その日本人の宗教観のルーツについては、縄文時代の「自然との共生思想」や「原始的多神教」にあることは多くの研究者によって報告されてきました。特に、神社は多種多様な神を祭っている場所であり、多くの日本人が、それらを受け入れていることは知られているところです。
しかし、一方、そうした縄文時代の思考様式が弥生時代という荒波を超えて生き残り、現在も主要な宗教になっていることについて、まだ明快な結論が出ておりません。
例えば、弥生時代というのは、大陸から高度な文明をもった弥生人が来て水田稲作を行い、豊かな瑞穂の国を作り、その流れの中で、縄文人も稲作を行うようになりました。その構造は、弥生人が主であり縄文人は従属した関係にあったと観られてきました。その意味で、なぜ日本人は縄文思想を大事にしてきたのか謎でした。
前置きが長くなりましたが、今回は、この謎について改めて愚考します。
最近、DNA研究(Y染色体ハプログループ分類)の結果、現天皇家のルーツはアイヌ系であることが分かりました。このことは、これらの謎を解くカギと思われます。
日本の古代史は、朝鮮半島由来の弥生人が、弥生時代を作り、古墳時代を作り、現王朝を作り、その中心人物は万世一家の天皇であった、という認識に強く支配されてきました。
しかし、その認識は、天皇家がアイヌ系であることが最近明らかになり、完璧に破壊されました。
弥生人王朝があったのは古墳時代まで、古墳時代末期にアイヌ系継体王(在位:507-531年)がその弥生人王朝を滅ぼしたことを拙ブログで検討してきました。
一方、このアイヌ系王朝は、8世紀(奈良時代)に日本書紀という日本の正史を創作しました。そこには、万世一系の偉大な天皇の姿が描かれ、現天皇家は弥生・古墳時代以前から居たように描かれていますが、それは完璧な創作だったことになります。
そこで、本題の日本人の思考様式に戻りますと、現天皇家=アイヌ系=縄文思想という関係ができあがります。日本人の縄文思想は現天皇家によって育(はぐく)まれてきたと結論されます。
弥生時代、弥生人の圧迫をうけながらアイヌ系はどのようにして縄文思想を守ってきたかですが、次のように考えることができます。
まず、縄文人にはアイヌ系とマレー系Aが主として居たことが知られていますが、おそらく、アイヌ系が中山間で栗を主食に、マレー系Aは海岸の貝など魚類を主食としてきたと思われます。
一方、そこへ、朝鮮半島由来ツングース系と中国南部由来マレー系Bという弥生人が入ってきて水田稲作を始めましたが、彼らが主に活動していたのは水田稲作可能な低地平野部でした。縄文人と弥生人は居住地が異なり平和裏に共存していたと思われます。
なお、マレー系A(縄文人=海洋系)、マレー系B(弥生人=稲作系)については「海洋系と稲作系のマレー系が別々に渡来してきた」を参照願います。
そして、中山間のアイヌ系は縄文時代と変わらぬ部族社会を作り、しだいに鉄器等を受け入れ農耕を行い、農耕社会になじみながらも、縄文時代と同じ宗教を維持していたと思われます。
縄文人と弥生人の対立が激しくなったのは古墳時代後期(5世紀)と思われます。弥生人が増え、縄文人は居住地が圧迫され、さらには古墳建造の労役が強制され、古墳建造王家(弥生人王朝)への怒りが出てきました。
こんななか、アイヌ系継体王が現れ、巨大古墳王家を滅ぼしたと思われます。そして、アイヌ系部族社会で継続していた縄文思想は引き継がれ、アイヌ系朝廷の保護もあり、全国的になっていったと想像されます。
例えば、関東の鹿島神社は縄文時代に起源があると言われますが、それは、関東に縄文人がもともと多かったこと、かつ、そうした地方宗教が平安時代以降に公式になったものと思われます。
まとめますと、日本人の思考様式や神社信仰というのは、アイヌ系の天皇家が権力を持ったときから、全国的になり、公式に認められ、育まれ、発展してきたと結論されます。
関連し、日本人の思考様式の成立について上トップ図に示しました。
なお、日本人の思考様式や宗教にに関心のある方は、拙ブログ左側にありますカテゴリの中の「縄文思想と日本人」を選択しクリックしますと、これまでの記事を見ることができます。

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