日本書紀の評価は時代とともに変わった

日本書紀の評価は時代とともに変わった(日本書紀は創作)
DNA研究(Y染色体ハプログループ分類)の結果、現天皇家はアイヌ系であること、このため、日本語のルーツはアイヌ系、日本人の思考様式や宗教もアイヌ系になったと判断されることを拙ブログでは検討してきました。
関連し、前回、日本の正史と言われる日本書紀は、縄文時代、弥生時代、古墳時代の歴史遺物と関係の無い創作物だったこと、それは、継体王(在位:507-531年)以来の新王朝、すなわちアイヌ系天皇を称える創作書だったためと検討しました。
こうした日本書紀に対する評価は、上記の2016年頃に分かったDNA研究結果から自信を持って言えることですが、それ以前は、日本書紀は日本の正史と言われるほど、信じられていた時代もありました。
関連し、今回は、日本書紀の評価は時代と共に変わったことについて、日本人のルーツ研究と関連し愚考します。
日本書紀の一般的評価についてはWikipediaに詳しくあります。それを参考に、日本書紀の歴史経過について検討しますと次のような感じになります。
まず、日本書紀は漢文で書かれており、刊行された奈良時代(720年)には、大仏建立と関連し、国際都市になった奈良に来るようになった外国人に日本紹介書として用いられたと言われます。評価は不明ですが、平安時代ともなると、増刷され、前回紹介しましたように紫式部も読んだことが分かります。
そして、江戸時代後期となりますと、日本学(国学)の影響が大きいと思われます。その代表的研究者は本居宣長でした。そこで、本居宣長のWikipedia記事(概要)ですが、次のとおりです。
概要
契沖の文献考証と師・賀茂真淵の古道説を継承し[注 1]、国学の発展に多大な貢献をしたことで知られる[5]。宣長は、真淵の励ましを受けて『古事記』の研究に取り組み、約35年を費やして当時の『古事記』研究の集大成である注釈書『古事記伝』を著した[5]。『古事記伝』の成果は、当時の人々に衝撃的に受け入れられ、一般には正史である『日本書紀』を講読する際の副読本としての位置づけであった『古事記』が、独自の価値を持った史書としての評価を獲得していく契機となった。
本居宣長は、『源氏物語』の中にみられる「もののあはれ」という日本固有の情緒こそ文学の本質であると提唱し、大昔から脈々と伝わる自然情緒や精神を第一義とし、外来的な儒教の教え(「漢意」)を自然に背く考えであると非難し[注 2]、中華文明を参考にして取り入れる荻生徂徠を批判したとされる[注 3]。
また、そのような儒教仏教流の「漢意」を用いて神典を解釈する従来の仏家神道や儒家神道を強く批判し、神道は古事記などの神典を実証的・文献的に研究して明らかにするべきだと主張した。そして、日本は古来より儒仏のような教えという教えがなくても、天照大御神の御孫とともに下から上まで乱れることなく治ってきたとして、日本には言挙げをしない真の道があったと主張し、逆に儒教や仏教は、国が乱れて治り難いのを強ちに統治するために支配者によって作為された道であると批判した[6]。また、儒教の天命論についても、易姓革命によって前の君主を倒して国を奪い、新しく君主になった者が自己を正当化するための作為であると批判した[6]。さらに、朱子学の理気二元論についても、儒学者達が推測で作り上げた空論であると批判、世界の事象は全て日本神話の神々によって司られているものだと主張し、世界の仕組みを理屈で解釈することはさかしらの「からごころ」であり神々に対する不敬であるとした[6]。
ただし、本居宣長は上述の通り現実を全て神の御仕業と捉えたため、時々の社会体制も全て神が司っているので人は時々の社会体制に従うべきだとも主張している。漢意を重んじる誤りのある現実社会もまた神により司られているため重んじるべきだとし[注 4]、今の制度を上古のようにするために変革しようとすることは「今の神の御仕業に背くこと」として批判し、自らが理想視した「古道」を規範化して現実の政治を動かそうとすることは徹底的に否定した[7]。そして、道は上が行い下に敷き施すものであるため、上古の行いにかなうからといって世間と異なることをしたり、時々の掟に反することをすることは間違いであり、下たるものは上の掟に従って生活することこそが古道であると主張した[8]。・・・(引用終了)
引用が長くなりましたが、まとめますと、本居宣長の発見や評価は次のとおりと思われます。
古事記など日本の重要古典を調べると、日本人固有の思考の拠り所は、導入された仏教や儒教でなく、古来からの神道であることが分かった。そのことは古事記や源氏物語にも描かれている。特に、古事記は、日本書紀の副読本扱いだったが、日本国家の成り立ちがやまと言葉(日本語)で詳しく描かれており、それを研究することによって、日本国家や日本人の本質に迫ることができる。
すなわち、本居宣長は、日本人の心や精神には独自のルーツがあることを発見したと思われます。さらには、本居宣長の到達点は、日本書紀(古事記)には、現天皇家はアマテラス(太陽神)の子孫であることが描かれており、天皇が政治を行うことが古(いにしえ)からの在り方と思うようになった感じがします。
こうした考えは、日本人のアイデンティティに迫るものであり、外国と対峙せざるを得なかった江戸末期にはもてはやされました。そして、それは尊王攘夷思想となり、神の天皇を抱く日本国という明治維新の精神的支柱となり、太平洋戦争が終了するまで、日本人の重要な精神的支柱となってきたと思われます。
しかし、その後、日本書紀(古事記)は、津田左右吉の「古事記及び日本書紀の研究」を初め、創作であることが多くの研究者によって指摘されるようになりました。
しかし、古事記研究における本居宣長の発見、すなわち、日本人には独自の文化あるということは、その後の日本人論のベースになった感じがします。
関連し、哲学者の梅沢猛の研究があります。彼は北海道アイヌと直接接触し、アイヌの習慣や言葉は日本人と同じであることを最初に明らかにした哲学者と思われます。例えば日本語ですが、魂はタマ、神はカムイなど、重要な基本単語が日本語と同じこと、また死後(あの世)のことですが、そのとき行われる通夜の儀式はアイヌと同じであることを明らかにしています。
これらの結果、通夜は縄文時代からあるアイヌ系や日本人の儀式であると推察されるようになりました。通夜について詳しくは「通夜は縄文時代の葬式」および「北海道の葬式に見るアイヌ風習の影響」をお願い致します。
すなわち、本居宣長や梅原猛の研究は、日本人は独自のルーツを持っていること、そのルーツは縄文由来のアイヌ系の文化にあることを明らかにしたと思われます。しかし、何故そうなったのかは明らかにできませんでした。
一方、最近のDNA研究から、天皇のルーツはアイヌ系であることが明らかになりました。その事実を基に拙ブログでは、日本語のルーツや日本人の考え方がアイヌ系と同じとになったことを検討してきましたが、より明確な結論に達したと感じています。
まとめますと、本題の「日本書紀」(古事記)の評価ですが、戦前までは高く評価されましたが、津田左右吉等の研究の結果、それは創作であり、そのような観点から評価されるようになりました。一方、それら「日本書紀」(古事記)の研究は日本人のアイデンティティに迫ったと思われます。
関連し、上トップに、日本書紀(古事記)と日本人のアイデンティティについて紹介しました。

日本史ランキング