百済語と日本語の関係愚考

百済語と日本語の関係愚考(日本語のルーツ)
今年(2022年1月)、「天皇は朝鮮から来た!?」(竒埈成 キ ジュンソン)が発刊されました(上記写真参照)。
天皇家のルーツは、DNA研究の結果、アイヌ系であることが分かっておりますが、本書「天皇は朝鮮から来た」では、それが無視されており、情報としては古い感じがします。本書の旧版が同名の「天皇は朝鮮から来た」(2010年)ですので、それを敢えて改定しなかった結果かもしれません。
一方、第3章「ワッソ!がワッショイに 百済語が日本語になった」はたいへん参考になりました。
関連し、本書を参考に、日本語のルーツについて、今回は愚考します。
まず、本書(第3章)の内容ですが、日本語になった百済語について紹介されているのは下表のとおりです。

いずれの言葉(19例)も、そのとおりと思われます。そして、このことは、著者指摘のとおり、古代において日本と百済の間に交流があったためて思われます。
なお、百済のルーツですが、稲作民族のマレー系が中国南部から北上し、朝鮮半島南西部に水田稲作で居住地を広げ、朝鮮半島稲作地帯に建設された国家で、マレー語が使われていたと思われます。
そして、百済と日本の歴史交流は、北九州倭国と百済との交流(4~7世紀)、および継体王(在位:507-531年)以後のヤマト朝廷と百済との交流の二つがあったことを拙ブログでは、指摘してきました。
まず、北九州倭国と百済との交流ですが、北九州倭国は百済と同じくマレー系民族の国であり、両国は古くから交流していたと思われます。そして、共同して北の大国「高句麗」と戦ったことが知られております。また、北九州倭国が滅びたのは白村江の戦いで大敗した結果です。詳しくは「白村江の戦いの真実、日本書紀は創作」を参照願います。
これらの結果、北九州倭国ではマレー語が使われてきたこと、そのマレー語は今でも、「よか」「ばってん」など北九州方言に残っていることを拙ブログでは検討しました。詳しくは「古代北九州ではマレー語が使われていたようだ」を参照願います。
さらには「百済」を「くだら」と読むのは、「くだら Kudara」はマレー語で「兄弟、同胞」の意味があり、北九州倭国では、同じマレー系の「百済」を「Kudara」と呼んだためと推察しました。詳しくは「古代国家「くだら」の国名由来」を参照願います。
次に、継体王以後のヤマト朝廷と百済との関係ですが、大和朝廷の歴史で、初めて外交を行ったのが継体王です。継体王は、3世紀に始まった朝鮮半島由来のツングース系王家を滅ぼし、6世紀初頭に新しくアイヌ系王朝を初めて王です。そのときの百済は部寧王時代で、大百済時代とも言われ、仏教導入など朝鮮半島で先進国でした。
このとき、継体王は百済から五経博士などを招き、初めて文書を導入した王とも言われます。この時、中国語の名詞や、万葉仮名の基となる漢字を導入しました。詳しくは「五経博士受け入れによる文書作成と継体王」を参照願います。
まとめますと、上記にある「ワッソ!がワッショイに 百済語が日本語になった」は拙ブログで検討してきた記事と一致するものと思われます。さらには、百済はマレー系国家だったことを示唆しています。
百済は「白村江の戦い」(663年)で唐・新羅連合軍に滅ぼされ、百済語は消えました。しかし、現在の韓国語(ツングース系言語)は新羅語がルーツですが、百済語も残っているという感じでしょうか。
なお、このような日本語のルーツに関心のある方は、拙ブログ左側にあります「日本語のルーツ」をクリックしますと、これまでの関連記事を見ることができます。
関連し、日本語と百済語の関係について、下図に示しました。


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