奥尻島になぜ大きな勾玉愚考

奥尻島になぜ大きな勾玉愚考(日本の古代)
Yahooニュース(2022.5.11配信)に「北海道・奥尻島になぜ勾玉が!? 「オーパーツ」の謎解明へ 考古学者に鑑定依頼」という記事が出ておりました。
今回は、この記事について検討し、その謎に迫ります。
本記事のソースは北海道新聞で、その内容は次のとおりです。
道路拡幅工事の際に出土:北海道奥尻町教委は本年度、青苗遺跡から出土した大きな勾玉(まがたま)の「謎」の解明に乗り出す。この勾玉は、昔の有力者の副葬品とみられ、3~4世紀ごろに新潟県糸魚川産のヒスイで作られたということが分かっているが、古墳時代の勾玉がなぜ奥尻にあるのかが判然としない。そこで、考古学の専門家4人に再調査と鑑定を依頼し、1年がかりで勾玉の由来について町の公式見解をまとめる考えだ。(引用終了)
まず、勾玉出土の場所(奥尻)は上トップ図のとおりです。
時代は3~4世紀、東北では弥生時代中期の感じでしょうか。「北海道旧石器時代の海外交易」によれば、この遺跡のはるか以前に、国内最大の黒曜石産地として有名な白滝遺跡群(網走)では、その黒曜石は、北はサハリン(樺太)、南は三内丸山遺跡(東北)まで運ばれていたことが分かっています。(上図参照)。
また、東北では、5000年前の三内丸山遺跡が知られておりますが、この三内丸山遺跡からの出土品には、上記の「新潟県糸魚川産のヒスイ」が見つかっております。詳しくは「技術立国日本のルーツは縄文時代に」を参照願います。
また、青森県では「砂沢遺跡」から炭化籾と水田跡が発見され、2500年前の弥生時代に水田で作られていたことが分かっております。さらには、2200年前には近くの「垂柳遺跡」で広い水田跡が確認されています。詳しくは「東北で最初に水田稲作を始めた人々は誰か」を参照願います。
以上の古代の経過をまとめますと、奥尻島近辺の北海道や青森では、縄文時代から富山産の勾玉の交易が行われ、2500年前には水田稲作跡も見つかっています。奥尻の3~4世紀の遺跡で出土した大きな勾玉は、その流れにあったと見ることができます。
次に、その担い手です。日本人は、DNA研究(Y染色体ハプログループ分類)で、アイヌ系が35%、マレー系が30%、朝鮮半島由来ツングース系が25%、その他10%であることが分かっています。
これらの民族のうち、弥生時代、海洋交易ができたのはマレー系だけと思われます。おそらく、三内丸山遺跡時代の海洋交易もマレー系と思われます。詳しくは「マレー系民族の日本文化への大いなる影響」を参照願います。
まとめますと、海洋交易が得意なマレー系の人々は海洋交易に便利な奥尻島に住み、海洋交易で豊かになり、その結果、大きな勾玉を持つことができたのではないかと推察されます。さらには、彼らは稲作民族でもあり、主食のコメを求め、青森に水田を造ったことが想像されます。
なお、それらの水田については、残念ながら、その後の冷涼な気象のため普及はしなかったのが真相と思われます。

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