古墳王家は馬と船で拡大した

古墳王家は馬と船で拡大した
天皇家はアイヌ系 2.古墳王家は何故滅びたのか 3)古墳王家は馬と船で拡大した
前回、朝鮮半島由来ツングース系民族は、鉄器を持ち、水田を開発し、豊かになり、人口が増大し、その中からツングース系王家が生まれ、その王家は出雲からヤマトに移動したたことを紹介しました。
その後、王家は巨大化し、中心地(都)を内陸部のヤマトから海岸部の河内(大阪)に移しました。関連し、今回は、王家を海岸部に移すきっかけとなった要因としての馬と構造船の発達と利用について検討します。
まず、馬ですが、日本では絶滅してしまったことが分かっていますので、当時の馬は朝鮮半島由来となります。
そして、巨大古墳が建造された河内(大阪)ですが、5世紀に馬の飼育場があったことが遺跡調査から分かっています。また、埴輪には馬形のものがありますが、これらが出てくるのは5世紀以降の古墳です。これらのことから推定しますと、馬の導入は4世紀、本格的使用は5世紀と推定されます。
この結果、ツングース系王家は、馬を使い、ヤマト周辺を移動し、古墳建造に必要な人員を確保したと思われます。当時、人々は馬を見たことがなく、かつ、乗馬した兵士は大きくたくましく見えたことと思われます。
因みにスペイン人のインカ帝国支配ですが、インカ帝国には馬が居なかったため、馬にまたがったスペイン人は大きく恐ろしく見えたため、インカの支配が少数でもできたことが知られています。日本の古代も同じく、馬は、戦いだけでなく人民支配の重要なひとつになっていたと思われます。
次に、構造船ですが、これなしに朝鮮半島からの馬の導入も不可能ですので、導入時期は同じく4世紀と推定されます。埴輪研究によれば、馬を乗せることのできる船形埴輪(準構造船)が出土するのは5世紀以降です。これらのことから総合しますと、準構造船利用は4世紀に始まり、5世紀に舟形埴輪ができたと理解されます。
そしてこの構造船が活躍したのは、内陸部の奈良(ヤマト)から海岸部の河内に中心が移動した時期と思われます。すなわち、5世紀になると、ツングース系王家は、馬と構造船を使い瀬戸内海を自由に航行し、近畿、中国、東九州、四国を支配することができるようになったのではないかと見ることができます。
その象徴的遺跡は、世界最大の大仙陵古墳、次に大きい応神天応陵と思われます。これらは、ツングース系王家の中心地(大阪)に建造され、その時期は5世紀前半ですが、まさに馬と構造船が活躍した時期と場所が一致します。
また、前方後円墳の建造はツングース系王家の象徴と思われますが、関連し、5世紀前半には吉備に300m以上の造山古墳、宮崎に西都原古墳群が建造されています。これらは、まさに、ツングース系王家の西支配の象徴的古墳と思われます。さらには、東海地域、東山地域、北陸地域にもツングース系王家象徴の古墳(前方後円墳)は建造され、関東東北を除くこれらの地域にも支配は及んでいたと推察されます。
一方、ツングース系王家がヤマトから河内(大阪)へ中心地が変わった件については王朝交代説があります。新河内王朝説が、その代表と思われますが、ヤマト王朝を滅ぼされ新しい王朝が作られたという物的証拠はなく、この説は創造の域は出ていません。
まとめますと、古代の中心地がヤマトから大阪に移動した背景については、馬の導入や構造船の発達により支配地が拡大し、海岸部が支配の中心地となり、その結果、中心地を内陸のヤマトから海岸部の河内(大阪)に移したと見るのが妥当と思われます。
関連し、下の写真は、著者がフイリピン・ミンダナオで働いたときにいただいた模型です。ミンダナオの古代の構造船ですが、解説によれば、これは遣唐使船のようです。当時の日本の構造船もこのようなものであったことが当時の埴輪から想像されます。

また、関連し、上トップに河内に移ったツングース系王家の支配地を示しました。

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