古墳王家は関東にもあった

古墳王家は関東にもあった
天皇家はアイヌ系 2. 古墳王家は何故滅びたのか 5)古墳王家は関東にもあった
関東地方にも多数の古墳があることが知られております。今回は、関東地方の古墳建造王家の盛衰について検討します。
まず、関東地方の弥生時代ですが、水田稲作の始まりは、神奈川県小田原市の「中里遺跡」で、時代はBC100年頃です。
一般に、水田稲作が始まると、その生産力から人口が増大することが知られております。関東の人口増加曲線で観ますと、増加が起こる時期は、近畿でBC200年頃ですが、関東でBC50年頃ですので、関東の人口増加(=水田稲作の始まり)は近畿より100年以上遅れて始まりました(下図参照)。

次に古墳の分布ですが、一般に、関東は、河川と言葉(方言)の関係から、群馬・埼玉、茨城・栃木、千葉・東京・神奈川の3地域に分類されます。
そこで、地域別に古墳建造時期と建造数を見ますと、下図のとおりです。古墳が特に多いのは群馬・埼玉です。また、建造時期は4世紀に始まり6世紀にほぼ終わりますが、5世紀と6世紀に集中しております。

また、墳長別の古墳数は下表のとおりです。墳長が200m以上もある巨大古墳があるのは群馬・埼玉だけです。特に群馬ですが、建造古墳数と巨大古墳の場所から判断し、関東の中心地だったと見ることができます。

一方、群馬の金冠塚古墳から「金銅金冠」、茨城の三昧塚古墳から「金銅製馬形飾付冠」が出土しており、これらをまとった王が居たことは間違いないと思われます。
また、埴輪ですが、国宝級の形象埴輪2点(すべて関東)、重要文化財41点(28点は関東)、その他著名な埴輪3点(2点は関東)、合計46点がWikipedia では紹介されております。
これら合計46点のうち、関東には32点(67%)があり、特に群馬には22点(国宝2点、重要文化財18点、その他著名2点)があり、形象埴輪は群馬に集中しております。(下図参照)

次に、古墳を建造した勢力ですが、水田稲作で発展したグループ、すなわちツングース系民族の王家と見ることができます。
弥生時代直前の関東は、中山間にアイヌ系が栗を主食に、海岸には貝を主食にしたマレー系が住んでいたと推察されます。その意味で、関東の平野部は過疎地でしたが、そこへツングース系民族が新潟方面から移住し稲作を行い、人口が増加し発展したと思われます。
彼らが豊かになると、王家を築く者が現れ、支配者になって行ったと思われます。それら古墳から出土した埴輪から見ると、そのルーツは出雲にあるという研究があります。また、古墳の近くに吉見百穴という埋葬遺跡がありますが、その埋葬様式は出雲という研究もあります。
これらの情報から総合しますと、関東の古墳王家のルーツは、出雲→新潟→関東の流れであったと思われます。
次に、関東の王家とヤマトの王家の関係ですが、どちらもルーツは出雲ですが、別々に発展したグループと思われます。その主な理由は次の3点です。
① 埴輪を見ると、関東の王家は圧倒的に豊かであり、先行のヤマト王家の影響は認められない。
② ヤマトと関東の間には両者を遮る巨大な山間部があり、山間部にはアイヌ系が多く、交流しにくい。
③ ヤマト王家は5世紀末に滅びるが、関東の王家は6世紀も続いている。
そして、関東の古墳王家の結末ですが、次のように推察されます。
まず、ヤマト(奈良・大阪)の古墳建造王家が5世紀末に滅び、6世紀からアイヌ系の継体王(在位:507-531年)に代わりました。
一方、関東の古墳建造王家は、6世紀まで古墳建造を続けています。また、200mを超える太田天神山古墳近くに、ツングース系王家関連の埋葬施設の吉見百穴(埼玉県)がありますが、この施設の利用は7世紀まで続きました。
以上のことから推察しますと、関東の王家は7世紀まで続いたが、西のヤマト王家が滅び、その影響で怖くなった関東王家の人々は少しずつ逃げ、7世紀初頭には没落し、埋葬施設(吉見百穴)だけが残った。しかし、その施設利用も限界となり、7世紀末に消滅した。激しい戦いがあったかは不明です。
なお、関東のツングース系王家のことが日本書紀にないのは、日本書紀の「偉大な万世一系の天皇家」という執筆方針に合わないため、ヤマトのツングース系王家と同じように無視された。
なお、上トップ図に、古代における関東の王家と出雲王家・ヤマト王家の関係をまとめました。

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