北九州倭国王と百済武寧王が継体王を支援した
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北九州倭国王と百済武寧王が継体王を支援した
天皇家はアイヌ系 3.古墳王家はアイヌ・マレー系連合に滅ぼされた 2)北九州倭国王と百済武寧王の継体王支援
前回は、継体王が百済と北九州倭国の支援を得て、ツングース系王家を滅ぼしたことを検討しました。今回は、百済と北九州倭国が継体王を支援したことについてさらに検討します。
まず、百済ですが、建国の経過は不明ですが、首都があった漢城時代(475年まで)、熊津時代(475-538年)、泗沘時代(538年から)の三時代に大きく分類されます。
現在のソウルにあった漢城が高句麗との戦いで落城し、その後、百済は山間部にある熊津に再建されました。熊津時代の始まりですが、502年に武寧王が即位し、高句麗を撃退したことにより次第に国力を回復しました。
このとき百済を支援していたのが北九州倭国です。高句麗から国を守るため百済は北九州倭国に支援を要請し、その支援の関係で百済王子の1人(後の武寧王)は、北九州倭国の交換捕虜となっていました。
捕虜となっていた百済王子は、北九州倭国で抜擢され倭王武と名乗り、中国南朝から「征東大将軍」の称号を得て、百済を除く朝鮮半島南部を支配する強大な国家にしました。このとき、新羅は倭国の属国となり、北九州倭国に朝貢するようになりました。
倭王武は、万世一系の偉大な天皇家という執筆方針と合わないため日本書紀では無視されたと思われます。しかし、偉大な倭王武を示す歴史的遺物は中国南朝の資料のほか、日本にもいくつかあります。
まず、一つは、海に面した倭国の都の太宰府建造です。その都の建造時期は5世紀で、日本で初めての条里制に基づいて建造された都で仏教寺院も建造されていました。5世紀は倭王武の時代で、倭国全盛時代であり、そこに都があったこととは歴史的事実とも合致します。
また、北九州の古墳には、ヤマトの古墳と異なり、装飾古墳が多いことが知られております。この装飾古墳のルーツは中国南朝にありますので、中国南朝と北九州倭国の関係があったことは確実です。
また、埼玉の稲荷山古墳鉄剣碑文があります。鉄剣碑文が創られた年代は471年(辛亥年)、そこには「天下の倭国の大王が居た」と書いてあります。また、北九州倭国領域の熊本県の江田船山古墳からも同内容の鉄剣が出土しております。
この時代、日本には、北九州倭王武、ツングース系ヤマト王家の王、関東王家の三王が居ましたが、ヤマトの王は継体王(在位:507-531年)に攻められ滅亡寸前、関東王家はまだ小国です。すなわち、鉄剣に記されている大王は、天下の倭国の大王という意味で、中国の南朝から「征東大将軍」と認められた倭王武以外には無いと判断されます。
一方、北九州倭国には隣国の敵として、ヤマトにツングース系王家があり、その王家は、岡山(吉備)を支配し、さらには東九州の大分・宮崎・熊本まで勢力を拡大していました。そこで、倭王「武」は、同じツングース系王家と関係のある宮崎をまず滅ぼしたと思われます。この方面は後に詳しく紹介します。
そして、偉大な業績を残した倭王武は、もともとは百済の王子であったことから、百済に戻り502年に王位に就き、武寧王と名乗りました。そして、503年に日本の継体王に王位就任祝いの鏡を贈りましたが、その鏡には、継体王は武寧王の男弟王(弟)と記されていて、継体王が百済の支援を受けていたことは確実です。
一方、その北九州倭国の始まりですが、その建国経過は不明です。高句麗王「広開土王碑文」によれば、399年に倭国が海を渡り、百済を臣民としたとありますが、その頃から倭国があったことになります。
そして、倭王武が百済に帰って武寧王となった後、倭国王(君)となったのは筑紫君(つくしのきみ)と呼ばれた磐井王でした。筑紫国風土記によれば、磐井王は筑紫の君(王)と呼ばれ、527年に継体王と戦った(磐井の乱)とき大分の方に逃げたとありますから、磐井王時代、筑紫国の領土は大分を含む北九州全域になっていと思われます。
また、百済と北九州の地域的特徴ですが、中国南部から北上してきた稲作民族マレー系Bの移住した地域で、稲作関係の弥生時代遺跡が多数ある地域です。その意味で、北九州倭国と百済はマレー系民族の国で、もともと言葉が通じ、兄弟関係になります。
関連し、百済は日本語読みで「くだら」と読みますが、「Kudara」はマレー語で兄弟という意味です。おそらく、同じマレー系の仲間ですので百済のことを北九州の人々が「くだら」と呼んだのが、その読みのルーツと思われます。
そこで、まとめますと、百済・北九州倭国と継体王の関係ですが、次のような関係になります。
1. 百済・北九州倭国は中国南部(越国)から渡来してきたマレー系民族の国で、北のツングース系の高句麗と戦ってきた。また、日本では、東方にツングース系のヤマト王家があり、その勢力は東九州まで迫ってきていた。
2. 一方、継体王はアイヌ系であり、アイヌ系はツングース系王家の巨大古墳建造に動員され、怒りに満ちていた。
3. これらの背景から、北九州倭国の倭王武は、継体王と連携し、まず、東九州とくに宮崎のツングース系王家を攻め、続いて、東に向かい、吉備の古墳王家を攻めた。
4. 継体王が、大阪・奈良のツングース系王家を滅ぼすと、百済の王になった武寧王がお祝いの鏡を603年に贈った。
関連し、これらの経過を上トップ図に示しました。
また、継体王を支援した武寧王(もと倭王武)の姿は下図のとおりです。

なお、以上の百済・北九州倭国と継体王の関係は、日本書紀では無視されています。理由は簡単で、現天皇家は継体王(在位:507-531年)から始まりますが、一方、それ以前からあった北九州倭国については、天皇家は万世一系という執筆方針とは合わないため、無視されたと思われます。

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