日本書紀は万世一系の創作だった

日本書紀は万世一系の創作だった
天皇家はアイヌ系 4.日本書紀は創作(第4章序文)
大仙陵古墳(仁徳天皇陵)等の巨大古墳を建造した朝鮮半島由来ツングース系王家(古墳王家)が、古墳建造に対する民衆の怒りを受け、アイヌ系の継体王によって6世紀初期に滅ぼされたことを検討してきました。
一方、200年後の8世紀初頭、日本書紀が編纂されました。
日本書紀は漢文で記載され、奈良時代(720年頃)に完成し、日本の正史と言われてきました。発案者は、壬申の乱を制し、名実ともに日本の大王となり、初めて自らを天皇と名乗った天武天皇(在位:673~686年)でした。
一方、日本書紀が創作であることは津田左右吉によって明らかにされています。Wikipediaによれば次のとおりです。
津田左右吉の成果は、記紀神話とそれに続く神武天皇以下の記述には、どの程度の資料的価値があるかを学術的に解明した点である。1919年の「古事記及び日本書紀の新研究」、1924年の「神代史の研究」が代表成果作である。津田は記紀神話から神武天皇、欠史八代から第14代仲哀天皇とその后の神功皇后まで、つまり第15代応神天皇よりも前の天皇は系譜も含めて、史実としての資料的価値は全くないとした。(引用終了)
また、これまで指摘してきましたように、いくつかの史実が日本書紀には書いてありません。それらは、北九州倭国の実在等ですが、津田左右吉指摘の「史実としての資料的価値は全くない」だけでなく、日本史の大きな史実が抜けていることになります。
関連し、ここ(第4省)では、史実だが日本書紀に書かれていない事柄について検討します。
日本書紀で抜けている大きな史実としては、近畿に発生した最初の王家は朝鮮半島由来のツングース系王家であったこと、一方、同時に北九州には邪馬台国や倭国があったことですが、これらについて日本書紀には書かれていません。
まず、ツングース系王家無視の問題ですが、すでに冒頭(初めに)で紹介しましたように、DNA研究の結果ですが、天皇家はアイヌ系だという事実です。そのルーツは継体王(在位:507-531年)まで辿ることができ、かつ、王宮跡、陵墓も確認されています。
しかし、それ以前の大王となると、王宮場所不明・陵墓不明です。おそらく、継体王以前の大王は、継体王によって滅ぼされ抹殺されたと思われます。その抹殺の証拠にツングース系王家の末裔は誰も出てきません。
そこで、日本書紀がツングース系王家のことを書かなかった理由について検討しますと、天皇家は万世一系でアイヌ系でしたので、ツングース系王家があったことは書けなかった。すなわち、その矛盾を避けるため無視したものと判断されます。
例えば、ツングース系王家は前方後円墳の巨大古墳をいくつも建造しました。前方後円墳のルーツは朝鮮半島由来の方墳であることは遺物から明らかです。しかし、これら巨大古墳建造について詳しく言及しますと、それらは継体王以前に別の王朝があったことになり、日本書紀の天皇は万世一系ということが虚構(ウソ)になってしまいます。
次に、北九州倭国の無視です。
北九州倭国の存在は中国南朝の歴史書や朝鮮半島の歴史書や遺跡に認められます。そして、倭王武については、朝鮮半島南部と北九州を支配した王として中国南朝の歴史書に書いてあります。しかし、日本書紀では無視しています。
同じように、魏志倭人伝にあります邪馬台国も無視しています。
さらには、倭国と唐・新羅連合が争った白村江の戦いがありますが、この戦いは北九州倭国と唐・新羅連合の戦いでした。しかし、日本書紀では日本(倭軍)と唐・新羅の戦いに改竄されています。しかし、それら日本書紀の内容は矛盾だらけです。そして、この戦いで北九州倭国が滅びたことも無視されました。
これら邪馬台国や北九州倭国の無視の理由はツングース系王家無視と同じで、万世一系という「日本の王家はひとつだけ」という執筆方針に矛盾するためです。
以上のことから想像しますと、中国語のできる日本書紀の編集者は、北九州の邪馬台国や倭国のことは、中国の歴史書に書いてあることであり、当然のことながら知っていた、しかし、日本書紀の「万世一系」という執筆方針に合致しない歴史的事実は書けなかったのが真相と思われます。
以上のほか、日本の古代には、狩猟採集の縄文時代、稲作導入で豊かになった弥生時代、それから王家ができ古墳時代になりましたが、これらのことについても、ほとんど触れていません。
そこで、本章(日本書紀は創作)で検討する課題は次のとおりです。
1) 朝鮮半島由来ツングース系王家の実在を無視
2) 邪馬台国と倭の五王の実在を無視
3) 白村江の戦いの内容は虚構
4) 出雲国が神話で重視される理由
関連し、日本書紀が編纂された背景と創作方針について上トップ図に示しました。

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