白村江の戦いの内容は虚構

白村江の戦いの内容は虚構
天皇家はアイヌ系 4.日本書紀は創作、3)白村江の戦いの内容は虚構
継体王(在位:507-531年)以前の日本書紀の記述は創作であったことを検討してきました。しかし、継体王以後の歴史的事件でも、それが認められます。それは百済滅亡経過にある白村江の戦いです。
日本古代の最大の対外関係事件は、663年の白村江の戦いと言われますが、これに関する日本書紀の内容は明らかに創作です。
すなわち、事実は北九州倭国と唐軍の戦いであったが、これを認めると北九州倭国があったことが明らかになり、天皇家は万世一系でなくなってしまう問題があり、事実は書けなかったことと思われます。
そこで、白村江の戦いの真相を探りますと次のとおりです。
まず、ヤマト政権が白村江の戦いに参加しなかったことは遣唐使の記録からも分かります。
白村江の戦いがあった時、ヤマト政権は、遣唐使を派遣し、唐の先進文化を積極的に導入しようとしていました。すなわち、ヤマト政権は唐と友好関係にあり、唐と戦う理由はありませんでした。
「遣唐使全航海」(上田雄著 2006)を参考に、白村江の戦いでヤマト政権が本当に戦ったのかについて検討しますと次のとおりです。
第4回遣唐使(659~661): 人数は240人ぐらい、船2隻に分乗し出発したが、東シナ海で逆風を受け、1隻は漂着した後、南海の島で島民の攻撃に合い、5人だけが逃げることができた。一方、残りの1隻は、都(長安)に659年に無事着いた。
当時、唐は660年に百済への総攻撃を予定していたため、百済の隣国である日本に情報が洩れることを恐れ、使節一行は唐の都に幽閉され、百済征討が終わった翌年(660年)に開放され、帰国した。
第5回遣唐使(665~667): 唐が百済を攻め滅ぼした後の663年、唐は百済に占領軍を置き、664年に唐の鎮将は部下を戦後処理のため百済から北九州に派遣した。さらに665年に唐の使節254人が北九州に再来した。そして、これら唐の使節を丁寧にもてなし帰国させる任になったのが第5回遣そして、これら唐の使節を丁寧にもてなし帰国させる任になったのが第5回遣唐使であった。(書籍解説終了)
これら遣唐使の内容から見ますと、白村江の戦いで日本側が唐と戦ったことは、まったく触れられていません。すなわち、唐と戦ったのは北九州の倭国軍であり、日本書紀にある倭国軍(日本軍)で無かったと判断されます。
また、665年に唐の使節254人が来ましたが、場所は北九州です。すなわち、彼らが来た理由は実際に戦った北九州倭国の戦後処理であったと推察されます。
関連し、当時倭国は「阿毎王権」でしたが、白村江の戦いの後、北九州倭国政権は中国の歴史書から消えました。また、倭国王だった「倭王の筑紫君薩夜麻(ちくしのきみ・さちやま)」が唐軍に捕らえられたことも知られております。
すなわち、白村江の戦いで唐軍と戦ったのは北九州の倭国となります。
次に、白村江の戦いにおける海戦の真相です。
まず、日本書紀をベースにしたWikipedia(白村江の戦い)によれば次のとおりです。
軍事力
唐・新羅連合軍
総兵力は不明であるが、森公章は総数不明として、660年の百済討伐の時の唐軍13万、新羅5万の兵力と相当するものだったと推定している[1]。また唐軍は百済の役の際よりも増強したともされる[4]。当時の唐は四方で諸民族を征服しており、その勢力圏は広かった。この時参加した唐の水軍も、その主力は靺鞨で構成されていたという。
水軍
水軍7,000名、170余隻の水軍。指揮官は劉仁軌、杜爽、元百済太子の扶余隆。
陸軍
不明。陸軍指揮官は孫仁師、劉仁願、新羅王の金法敏(文武王)。
倭国軍
第一派:1万余人。船舶170余隻。指揮官は安曇比羅夫、狭井檳榔、朴市秦造田来津。
第二派:2万7千人。軍主力。指揮官は上毛野君稚子、巨勢神前臣譯語、阿倍比羅夫(阿倍引田比羅夫)。
第三派:1万余人。指揮官は廬原君臣(いおはらのきみおみ)(廬原国造の子孫。現静岡県静岡市清水区を本拠とした)。(引用終了)
また、このときの唐軍の指揮官「劉仁軌」ですが、Wikipediaによれば次のとおりです。
龍朔3年(663年)9月、百済残党を支援する倭(日本)の水軍を白村江で迎撃し、400余隻の軍船を焼き払って大勝する(白村江の戦い)。さらに百済故地の諸城を平定し、屯田を営み庶民を安心させたという。(引用終了)
また、「白村江の戦いの“信じがたい真実”…なぜ倭国軍全滅の戦争を起こしたのか?」(ブログ記事)によれば次のとおりです。
奈良時代の歴史書『日本書紀』によると、大伴部博麻(おおともべのはかま)という筑紫国の農民兵が690年に帰国した。あるじの豪族4人とともに唐軍の捕虜になったが、自分の身を売って奴隷になり、その金であるじを先に帰国させる。本人が帰国を果たしたのは白村江の戦いから27年も後だった。(引用終了)
これらから白村江の戦いの真相を探ると次のとおりです。
1. 唐軍は7000余人、船舶170余隻また、船の大きさは、単純計算で40人乗り、大~中型船という感じです。
2. 一方、日本書紀の記述ですが、日本軍は1万余人。船舶は唐軍と同じく170余隻ですが、唐軍と同じ船数となっているのは作為的と思われます。また、船の大きさですが、単純計算で60人乗り(1万人/170隻)で唐軍よりも大きな船です。そこで、そのような多数の大きな船をどのように作ることができたのか、疑問が残ります。当時は、そのようなサイズに遣唐使船がありますが、数隻準備するだけで精いっぱいだった時代、170隻はあり得ません。
3. また、唐軍指揮官「劉仁軌」の記事によれば、「400余隻の軍船を焼き払って大勝」とあります。さらに関連記事を見ますと倭国軍は小舟のため唐軍の船に挟まれ苦戦したとあり、日本書紀記述のような大きな船は出てきません。
4. また、日本書紀の別のところでは「北九州筑紫国の農民兵が690年に帰国した」とあります。これは、白村江の戦いの主役は北九州倭国の兵士だったことを示唆しております。
5. さらには、捕虜の帰還に関し、Wikipediaによれば、沙門道久(ほうしどうく)・筑紫君薩野馬(つくしのきみさちやま)・韓嶋勝裟婆(からしまのすぐりさば)・布師首磐(ぬのしのおびといわ)の名前があります。彼らは、北九州倭国の高僧、王、豪族です。
6. 以上のことをまとめますと、白村江の戦いは唐軍(中型船)と北九州倭国(小型船)との戦いであったと見ると矛盾がなくなります。
これらをまとめますと、白村江の海戦いで唐軍と戦ったのは北九州倭国であったことになります。
次に、白村江の戦いの和平会議(665年)で決まったことです。
まず、白村江の戦いの経過は次のとおりです。
659年: 日本(ヤマト政権)第4回遣唐使派遣(661年帰国)。
660年: 唐・新羅連合軍に百済が敗れ、残党が北九州倭国と日本に復活のための支援を要請する。
663年: 北九州倭国軍が支援に向かい、唐・新羅連合と対戦し、白村江の戦いで大敗し、陸上の戦いでは指揮官(倭国王)等多数が捕虜となる。
665年: 唐の劉徳高が戦後処理の使節として北九州に来て、3ヶ月後に劉徳高は帰国した。この唐使を送るため、日本は第5回遣唐使(665~667)を派遣した。
そこで、その経過を詳しく検討しますと、不思議なことに665年の戦後処理の内容が日本書紀では明らかになっていません。
一般に、敗戦国は戦勝国に何らかのものを提供しなければなりません。しかし、日本(大和政権)は何も失っていません。
また、捕虜になったのは倭国王初め北九州倭国関係者ばかりです。日本書紀に、「指揮官は安曇比羅夫、狭井檳榔、朴市秦造田来津」等、大和の指揮官の名前が入っていますが捕虜になった者は居ません。
そこで、前後関係から想像しますと、665年の戦後処理では、次のようになったと推察されます。
1. 今回の戦争は北九州倭国が起こしたもので、日本(ヤマト政権)は関係がない。
2. 百済を支援してきた北九州倭国は抹殺、その領土(北九州)は日本のヤマト王家の帰属とする。(関連し、白村江の戦いの後、日本は日本統一を果たしたと旧唐書にあります。)
3. 日本は引き続き唐の属国として扱われる。
4. 百済の残党には厳しく対処する。例えば、日本に逃げてきた百済文化人の関東流刑です。
これらをまとめますと、「白村江の戦い」は唐・新羅連合軍と百済残党・倭国の戦いであり、ヤマト政権は中立で、その結果、漁夫の利を得たと結論されます。
そして、日本書紀はなぜ歴史を改竄したかですが、理由は簡単です。「日本は万世一系の天皇家」という執筆方針があり、これに反する北九州倭国の実在は書けなかったこと、と思われます。
関連し、海戦の様子を上トップに示しました。
また、白村江の戦いの真相を下表にまとめました。


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