稲はマレー系が持ち込んだ
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稲はマレー系が持ち込んだ
天皇家はアイヌ系 5.日本文化のルーツ 3)稲はマレー系が持ち込んだ
日本文化のルーツと関連し、日本語はアイヌ語、神社宗教はアイヌの自然信仰に由来すること、それらは、天皇家が朝鮮半島由来ツングース系からアイヌ系の継体王(在位:507-531年)に替わったことに由来することを検討してきました。
一方、日本には、アイヌ系とは独立に発展した文化として稲作、納豆などの発酵食文化が知られております。これらの文化は東南アジアの食文化と関係があり、照葉樹林文化とも言われたことがあります。
そして、照葉樹林文化は照葉樹林文化論とも言われ、50年前の1970年代、稲作のルーツとも関連し、たいへん流行った文化論でした。
関連し、今回は、これらの文化が誰によってもたらされたのか検討し、照葉樹林文化論が否定されている現状について検討します。
まず、照葉樹林文化は、Wikipediaによれば、照葉樹林文化論として次のように紹介されております。
照葉樹林文化論(しょうようじゅりんぶんかろん)とは、1970年代以降の日本の文化人類学において一定の影響力を持った学説である。具体的には、日本の生活文化の基盤をなすいくつかの要素が中国雲南省を中心とする東亜半月弧に集中しており、この一帯から長江流域・台湾を経て日本の南西部につづく照葉樹林地域に共通する文化の要素は共通の起源地から伝播したものではないかという仮説である。また日本列島の縄文文化は照葉樹林文化の一種であるとの誤解を一部にまねいた。(引用終了)
引用記事をまとめますと、照葉樹林文化論はほぼ否定されたものと思われます。
第一の理由は、日本の食文化に多大な影響をもたらした稲作のルーツについては雲南でなく、江南地方であることが分かったことです。
最近の研究では、最も古い稲品種はインドネシア(もとスンダランド)にあり、種類は熱帯日本型で、地球温暖化に伴い、それらが北上し、縄文時代頃に揚子江流域の江南地方で栽培されたことが分かっています。
それを裏付ける代表的遺跡は7000年から始まったと言われる巨大な河姆渡(かぼと)遺跡です。この遺跡は北の3000年前の黄河文明より早いとも言われております。
そして、稲作の北上経過ですが、初めに、最古の稲品種がインドネシアで開発され、それが北上し江南地方に広がり、さらに北上し、山東半島を経て、韓国西南部と北九州に3000年前頃に広がったと推察されています。
一方、岡山市の彦崎貝塚で、6000年前の地層からイネのプラント・オパールが多量に出土したことが明らかになっていますが、これが日本最古の稲作遺跡と判断されます。しかし、この縄文時代稲作は陸稲栽培でした。上記の河姆渡遺跡とは別の流れのものと推察されます。
陸稲栽培は、畑作と同じで、連作ができない、休耕期間が必要である問題があり、一般に低収栽培技術です。しかし、水田作は、流れてくる水の中に含まれている養分を肥料として使うことができますので、連作可能な栽培技術です。
この水田稲作の普及は、水路造成、水を貯める畝造成が必要であり、2500年前の鉄器の普及と共に広がったと判断されます。
次に、民族との関係ですが、日本人は、アイヌ系35%、マレー系30%、朝鮮半島由来ツングース系25%、その他10%の混合混血民族です。こういった東南アジア文化を日本に持ち込むことができた民族はマレー系以外に考えることはできません。
因みに、照葉樹林文化地帯と言われる東南アジアと東アジアのマレー系の人々の割合は上トップ図のとおりです。
マレー系の人々はバリ等やジャワ島で割合が高く、ここがルーツと思われます。さらには、ベトナムで33%、ヤオ族(中国南部)で40%、朝鮮半島と日本で32%と高頻度です。マレ-系の人々が稲作を携え、東南アジア、中国を北上し、朝鮮半島と日本へ来たのはほぼ間違いないと思われます。
関連し、近著「稲作渡来民」(池橋宏 2008)には、その経過が詳しく描かれています。(下図参照)

まとめますと、50年前に流行した照葉樹林文化論は、稲作起源が雲南ではなく江南地方であることが明らかになり、否定されたものと想われます。
稲作はマレー系民族が日本へ持ち込んだことは明らかです。一方、水田稲作には鉄器が必要です。これを携え、水田稲作を普及させた朝鮮半島由来ツングース系民族の評価も水田稲作普及の観点から重要と判断されます。

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