鉄器はツングース系が持ち込んだ
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鉄器はツングース系が持ち込んだ
天皇家はアイヌ系 5.日本文化のルーツ 6)鉄器はツングース系が持ち込んだ
前回、日本の巨石文化のルーツはマレー系と関係があることについて検討しました。今回は、日本文化のルーツ最後になりますが、水田稲作拡大の基になった鉄器のルーツについて検討します。
まず、日本の稲作は、3000年前、佐賀県の菜畑遺跡に始まったことが知られております。しかし、これは石器を使ってできた水田跡でした。このためか、水田稲作の広がりはほとんどありませんでした。
水田稲作には、水路、畦畔造成等のために、鋤(すき)等の鉄製農具が必要です。この鉄製農具の導入は青銅器と一緒でBC300年(2300年前)と言われています。このことから、鉄製農具の普及は早くても2300年前以降となり、以上の水田稲作開始時期と一致します。
関連し、下の写真は、稲作が肉体労働だけで行われているマダガスカルの耕起の様子です。古代においても、このように鉄が先端に付けられた鋤が最初に作られ、水田稲作は行われたようです。

近著「海の古代史」(布施克彦 2018、下図参照)は、たいへん参考になります。本著では海洋交易の発展の様子だけでなく、古代交易で重要な鉄のルーツや日本への輸出の様子が紹介されています。

本著によれば、朝鮮半島南東部の慶州(後の新羅の都)で紀元前3世紀頃の製鉄遺跡が見つかっていて、この地域に一大製鉄産業があったことを紹介しています。そして、後に新羅はこの製鉄技術をベースに発展したようです。
新羅は、北に居たツングース系民族が南下し、建国された国と言われます。彼ら畑作民族ですが、この鉄器を使い、畑作だけでなく、水田稲作も始め、弥生時代の中心的民族として活躍したものと思われます。
このとき、朝鮮半島西側にマレー系が居て、水田稲作を行い発展し、後に百済を建設しました。おそらく、隣の東側に居たツングース系は、弥生時代、その水田稲作を学び、日本に来て、手持ちの鉄器を使い稲作を始めたと思われます。
日本には、縄文時代からアイヌ系とマレー系の人々が居ましたが、アイヌ系は中山間地に、マレー系は海岸地に住み、自給自足的な採集経済生活をしていました。このため、稲作適地の平野部、特に西日本地域は人が少なく、ツングース系の人々は容易に平野部で水田稲作を始めることができたと想われます。
なお、このとき、北九州に水田稲作技術をもたらしたマレー系が居ましたが、鉄器は十分でなく、かつ人口も少なかったことから、西日本全体で見ると、ツングース系に遅れをとったと想われます。数値で見ますと、水田稲作系のマレー系は10%、縄文時代からのマレー系は20%、鉄器をもたらしたツングース系は20%だったと推察されています。
関連し、人口増大と水田稲作開始時期の関係を下図に示しました。この人口変動図では、人口が増大の始まる時期を生産力の高い稲作導入期としています。

人口が増大し始める時、すなわち水田稲作開始時期は、九州(緑線)は3000年前ですが本格的になるのは2000年前頃、中国(青線)は2200年前頃、四国(赤線)は1900年前頃になります。そして、この時期辺りが鉄器導入時期になります。
なお、東北地域(青森県)で2200年前より以前の水田稲作遺跡が見つかっております。しかし、その後の発展・拡大が認められていないことから、これは試作だったと理解されます。
関連し、鉄器生産と稲作、ツングース系民族の関係について、上トップに示しました。

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