邪馬台国の真相、はじめに、大分で良いのか
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レインボー

邪馬台国の真相、はじめに、大分で良いのか
私ことですが、「邪馬台国はなかった」(古田武彦 1971)に触発され、古代史に興味を持つようになりました。
偶然にも、4年間(1985~1989)、その中心地辺りと言われる福岡県筑後市で暮らすことができ、仕事が忙しくない冬に遺跡巡りをすることができ、興味は一段と膨らみました。そして、最近になり、邪馬台国は大分にあったという説が最も妥当という感じになってきました。
関連のWeb情報を見ますと「邪馬台国の所在地論争がまだ決着していません」という記事をよくみかけます。しかし、これは明らかに欺瞞です。
特に、邪馬台国がヤマトにあったという説ですが、これは、魏志倭人伝(原文)をどのように読めばそうなるのか、まったく理解不可能です。例えば、南(原文)は東の間違いだとかがありますが、こうなりますと、場所探しは、どのようにも可能です。邪馬台国はヤマトにあったという証明ためのこじつけの感じがします。
また、原文では、住民は分身(入れ墨)をし、容貌や風俗は中国の海南島の民族に似ている、とありますが、都合が悪いのか、ヤマト説ではこのことに触れません。こうなると、ヤマト説は科学でなく妄想です。
しかし、このようなヤマト妄想説が、どうどうと書籍化され、書店に山と並んでいる状況は、異常としか言いようがありません。そして、我が市の図書館も同じような状況で、いかんともしがたい焦燥感を感じます。
邪馬台国がヤマトにあったという妄想の始まりは、邪馬台国の次に現天皇家がヤマトに創られた、ということを言いたいための感じがします。
しかし、日本の正史といわれる日本書紀に邪馬台国については記述がありません。そこで、その理由を検討しますと、拙ブログで何度も指摘していることですが、次のような感じと想われます。
まず、天皇家はアイヌ系であることがDNA研究の結果、分かりました。このことは、現天皇家の前に創られた朝鮮半島由来ツングース系王家が現アイヌ系王家に滅ぼされたことを示唆します。おそらく、巨大古墳をいくつも建造した結果、民衆は疲れ、反抗し、その王家は継体王(在位:507-531年)の時代、滅ぼされたものと思われます。
そして日本書紀は、偉大な万世一系のアイヌ系天皇家を主題に創作したもので、奈良時代に完成しましたが、現天皇家の前にあった王家については、無視しております。その理由は簡単です。万世一系という執筆方針ですので、これより前にあった王家は認められないためです。
このためか、朝鮮半島由来ツングース系王家だけでなく、中国南朝の歴史書に記述されている倭王武(北九州倭国王、安東大将軍、478年)も出てきません。邪馬台国についても同様な扱いだったと思われます。
天皇家はアイヌ系であることが分かった現在、天皇家と邪馬台国の接点はまったく無くなったと判断できます。言い換えますと、弥生時代末期、邪馬台国はアイヌ系王家でヤマトにあったという説になると、妄想を超えて夢物語です。
そこで、邪馬台国はどこにあったのかですが、最近の情報をまとめますと、北九州大分説が有力な感じです。その理由は単純明快で次のとおりです。
まず、魏志倭人伝ですが、魏の使いは、北九州の末羅国(松浦)に着き、そこから邪馬台国(女王国)の官の居る伊都国(糸島辺り)に行き滞在した。そして、そこで見聞きしたものを本国に紹介した内容が書いてある感じです。
女王国は伊都国の南方、水行で10日、または陸行で1ヶ月の地にあるとありますが、この地に当てはまりますのは、筑紫平野(佐賀平野+筑後平野)説、または大分説しか残りません。
次に、女王の都するところですが、東に海があり、その先にまた陸があるとあります。こうなると、当てはまるのが大分しかありません。
以上のことから原文を忠実に読むと、倭人の住む国には北九州地域をまとめた連合国があり、そのまとめ役の女王は大分に居たという説がたいへん有力な感じがします。そして、大分説を確信するためには女王の墓等の具体的証拠が必要ですが、ここでは大分の妥当性について、さらに検討していきます。
主なタイトルは次のとおりです。
主題:邪馬台国の真相
はじめに(今回報告)
1. 東アジアと日本の3世紀の様相
2. 民族の問題(戦乱の要因)
3. 卑弥呼はツングース系
4. 漢字の読み方、北方読みか南方読みか
5. 狗奴国と投馬國の場所
6. 人口(戸数)の問題
7. 邪馬台国はどうなったのか(東アジアと日本の4世紀の様相)
8. 邪馬台国はなぜ滅びたのか
9. 邪馬台国は大分に(まとめ)
おわりに
なお、関連し、上トップ図に、邪馬台国の場所(大分説)を示しました。

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