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邪馬台国の真相 1.東アジアと日本の3世紀の様相

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東アジアの状況(3世紀中)


邪馬台国の真相 1.東アジアと日本の3世紀の様相

ここでは、魏志倭人伝の書かれた背景や邪馬台国の状況について検討します。

魏志倭人伝は3世紀末に書かれたと言われます。中国は、3世紀、漢王朝が220年に崩壊し、魏・蜀・呉の三国時代となっていました。その後、西の山間部にあった蜀が263年に魏に滅ぼされ、北朝の魏と南朝の呉の対立時代となりました。

魏は呉を攻め、中国の統一を図ろうとしていましたが、この時、朝鮮半島の南方にあった倭人の国を味方に付け、南方東側から呉を攻めるという計画があったと言われます。このため、魏は、使いを倭人の国に派遣し、その国力を調査しましたが、それらの結果が記されているのが魏志倭人伝と言われます。(上トップ図参照)

魏の使いは邪馬台国(連合)の支所のあった九州北部海岸にある伊都国まで来て、そこに滞在し、その国の状況を調べ、国名や戸数などの情報を持ち帰ったと言われます。卑弥呼の居る女王国には行かなかったようです。

しかし、その情報は、現在の遺跡調査結果から見ると、詳しくは後ほど紹介しますが、かなりいい加減です。とても、まともな情報とは言えません。おそらく、女王の居る邪馬台国は伊都国から南に水行10日、あるいは陸行で30日という遠い地にあり、かつ、その行程は安全の保証がないため、調査できなかったものと思われます。

一方、卑弥呼の使いが中国(魏)に朝貢するため帯方郡に着いたのは238年と言われます。当時、邪馬台国のあった北九州地域は争いが絶えず、魏に朝貢し、魏の権威を借りて、戦乱の無い国を創ろうとしたのが朝貢の目的だったと言われます。おそらく、魏の使いが来たときも同じ状況だったと想われます。

以上のことから、倭国は、戦乱が絶えず、文字もなく遅れた野蛮な国であり、呉と戦えるような強大な国ではなかった状況も魏志倭人伝に含まれている感じです。

次に日本の様子ですが、この時代と関連し、弥生時代県別遺跡数を下図に示しました。

西日本地域の県別弥生時代遺跡数


遺跡数は、その時代の人口や国力を間接的に示しますが、1位が福岡で3000、2位が岡山で2000、3位が宮崎で1500になります。当時は、これら3県が地域中心地であり、おそらく、邪馬台国は福岡または周辺と見るのが妥当と思われます。

一方、ヤマト説(奈良説)ですが、遺跡は1位の福岡が約3000に対し奈良が500です。3世紀、奈良は田舎に当たり、ヤマトに邪馬台国があった雰囲気はありません。

当時(3世紀)の日本の状況について以上の弥生時代遺跡数から見ると、北九州諸国の他に、吉備(岡山)、日向(宮崎)がありました。

吉備には弥生時代最大と言われる楯築遺跡があり、稲作のほか製塩をしていたことが分かっており、弥生時代の中心地の一つであったと判断されます。

一方、宮崎ですが、宮崎平野は水田稲作の敵地であり、九州地域における第二の中心地だったと理解できます。また、その後に建造された西都原古墳群は、その繁栄を示す遺跡と思われます。これらのことから判断しますと、魏志倭人伝にあります投馬国(伊都国から南に水行20日)は宮崎(日向)当たりと判断されます。

他の地域を見ますと、出雲は、半島由来の大量の青銅器があり、美しい四隅古墳(方墳)があり、小国だったが、朝鮮半島由来ツングース系の先進文化地帯だったと判断されます。しかし、出雲は農地が少ない問題があり、その勢力はヤマトに向かい、3世紀末に、先に住んでいたツングース系民族をまとめ、ヤマト王家を創り、四隅古墳から発展した前方後円墳という巨大古墳を建造するような大王家になっていったと推察されます。

しかし、このヤマトに創られた王家は北九州の邪馬台国とは離れた地域にあり、関係がなかったことは言うまでもありません。


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Posted byレインボー

Comments 2

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motomasaong
民族的にもバラバラだったのでは?

 戦争を繰り返していたという事は、マレー系、アイヌ系、ツングース系もバラバラだったと考えられます。
 戦争になれば、男性は殺されても、女性と子どもは奴隷にされますし、綺麗な女性や美男子なら、敵国でも結婚するか愛人になり、子どもを残したはずです。
 いくら奴隷の子であっても、自分の子となれば可愛いですし、美しい妾やツバメの子であればさらに大切にしたでしょう。
 オスマントルコがいい例であって、綺麗な娘さんであれば、皇帝の愛人どころか時には正妻として権力を掌握しましたし、中国でも韓国でも皇后以外でも愛人が男の子を生めばその子が皇帝や王になりました。
 権力の頂点でもこの有様ですから、末端でも当然同じ事が起きたはずです。
 戦争が繰り返されていたなら、何度も同じ事が起きますから、邪馬台国の段階でも既に混血民族化していたのではないでしょうか? 
 仮に邪馬台国が大和だとこじつけたとしても戦乱が繰り返されていたなら、万世一系などという妄想は無意味な空論になりますね。

  • 2023/03/24 (Fri) 17:49
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Re: motomasaong様、民族的にもバラバラだったのでは?

motomasaong様
いつもコメント、ありがとうございます。

ご指摘の「民族的にもバラバラだったのでは?」ですが、その通りだったと思われます。
弥生時代末期、それぞれの民族は部族社会だったと思われます。

高身長のツングース系は鉄製の武器も持ち、倭国を支配しようとしていたと思われます。
これらのことは次回に紹介する予定です。
草々

  • 2023/03/25 (Sat) 08:18
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