邪馬台国の真相 2.民族対立問題があった
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レインボー

邪馬台国の真相 2.民族対立問題があった(戦乱の要因)
魏志倭人伝によれば、「2世紀後半から倭国では大乱があり、卑弥呼を王としてたてると大乱は収まった」、とあります。この大乱の要因は、通説によれば、弥生時代末期の富の奪い合い、王権の争い等と言われております。
しかし、近畿、中国、九州の3地域を比較しますと、倭国の大乱があったのは九州地域だけだった感じがします。例えば、上図は地域別人口変動です。この図は、小山(1978)の古代人口報告を基に、著者が作成したものです。
九州地域は稲作の始まりが早かったことから推定すると、弥生時代中期(BC1世紀辺り)、九州地域(緑線)は人口が多かったことは妥当です。しかし、弥生時代末期(2世紀辺り)の人口増加は、中国、近畿で人口が急増していることと比較すると緩やかです。
この人口増加が緩やかだったことは争いが関係したと考えると妥当です。すなわち、魏志倭人伝にある倭国の大乱は北九州で起こったことと判断されます。
そこで、その九州、特に北九州の戦乱の要因ですが、いくつかの事例から判断すると民族対立問題があったのではないかと思われます。
まず、最近のDNA研究(Y染色体ハプログループ分類)に、福岡、大阪、金沢の人々のDNAを調査したSatoら(2007)の報告があります(下表参照)。表のAは成人の意味です。

福岡では南方由来マレー系が多く35%、一方、大阪と金沢は28%です。一方、朝鮮半島由来ツングース系は、福岡で19%、大阪で30%、金沢で28%です。すなわち、福岡はマレー系が多く、ツングース系が少ない傾向があります。
これらのことは、北九州福岡では、マレー系が多かったが、少数派のツングース系も居たと判断されます。一方、アイヌ系は30%居て存在感があります。彼らの多くは縄文時代から中山間に居て、弥生時代の末期ともなると農耕もしていたと推察されますが、情報はありません。
一方、大規模な弥生時代遺跡が見つかった吉野ヶ里に前方後円墳が見つかっています。前方後円墳は朝鮮半島由来ツングース系の王墓と推察されます。ツングース系は高身長で、半島由来鉄製の武器を持っていました。このことは、少数派のツングース系が多数派のマレー系を支配していた可能性を示唆し、倭国大乱の一要因と思われます。
次に、本当に福岡はマレー系が多かったのかですが、DNA以外に検討しますと、次のとおりです。
まず、福岡県の有明海沿岸には縄文時代貝塚が多数、残されています。これは、縄文時代に渡来したマレー系民族が残したものと推定されます。マレー系は日本全体で30%居ますが、20%は縄文時代に渡来し、10%は弥生時代に渡来したことがDNA分類から分かっています。
縄文時代のマレー系は、海岸を中心に居住し、海洋交易等に関係したと言われ、貝塚は彼らの残した遺跡と想われます。関連し、魏志倭人伝によれば、住民は分身(入れ墨)をしており、海南島の人々に似ているとありますが、これはマレー系であることを示唆しています。
一方、弥生時代に渡来したマレー系ですが、彼らは、稲作民族で、中国南部から韓国西南部と北九州地域にも着き、日本に水田稲作を導入したことがほぼ確認されています。
以上のことから、上記のマレー系DNAは縄文時代マレー系と弥生時代マレー系の合計ですが、彼らは言葉が同じであり、魏志倭人伝にも記載されていることから、弥生時代末期には北九州で連携し、主要民族となっていたと想われます。
続いて言葉ですが、北九州の方言に、ヨカ、バッテン等がありますが、同じ言葉がマレー語にあり、マレー系言語に由来すると推察されます。詳しくは「古代北九州ではマレー語が使われていたようだ」を参照願います。
また、佐賀県のサガという言葉ですが、マレー語では美しいと言う意味があります。朝鮮半島から佐賀あたりの北部九州を見ると、木が茂り美しいと言われますが、この意味で、サガという地名も言語はマレー系言語に由来すると推察されます。
次にマレー系の身体的特徴ですが、マレー系は低身長、ツングース系は高身長ということが知られていますが、「学校保健統計調査 都道府県別身長(17歳)」によれば下図のとおりです。これらは拙ブログ「北九州にマレー系民族が居たのか、現在の身長差から検討する」の引用です。


最近年(2014年)のデータでは差が小さくなりますが、明らかに福岡は男女とも低身長であり、マレー系の特徴が出ております。
また、個人的感想ですが、福岡女性は二重まぶた、丸顔の可愛らしい顔立ちの女性が多く、これもマレー系の特徴と思われます。詳しくは「秋田美人と博多美人のルーツの違い、身長差から」を参照願います。
また、倭国の倭の意味は、中国人が付けた小柄な倭人という蔑称です。マレー系の特徴は低身長ですので、このことからも、北九州はマレー系民族の国で、想像以上にマレー系が多かったと推察されます。
魏志倭人伝に一般市民と権力者の関係が出てきます。例えば、次のとおりです。「下級の者が貴人に道路で出逢ったときは、後ずさりして草の中に入る。言葉を伝えたり、物事を説明する時には、しゃがんだり、跪いたりして、両手を地に付け、敬意を表現する。貴人への返答の声は「噫(アイ)」という。」
「アイ」はマレー語で「私は賛成=OK」という意味になります。すなわち下級の者はマレー語を話すマレー系の人々と想われます。このことから、邪馬台国では、マレー系が多数派の一般市民で権力者が少数派のツングース系の感じがあります。まさに、邪馬台国時代、北九州はこのような状態だったことを感じさせます。
まとめますと、北九州倭国はマレー系が多数派で、そこに少数派のツングー系がいた。一方、中山間部にはアイヌ系も居て、民族対立問題があった。なかには、少数派のツングース系の首長も居て、少数派が多数派を支配するという構図もあり、これらが、他の地域にない大乱の要因であったと判断されます。

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