邪馬台国の真相 5.狗奴国と投馬國の場所
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レインボー

邪馬台国の真相 5.狗奴国と投馬國の場所
魏志倭人伝に邪馬台国南方に狗奴国と投馬國があることが紹介されています。今回は、それらの場所について検討します。
まず狗奴国ですが、これまで漢字の南方読みで「くなこく」と呼ばれてきました。しかし、前回紹介のように、書いたのは、魏国の者で北方読みが正しくなります。すなわち、「こどこく」が正しくなります。
そして、魏志倭人伝によれば、邪馬台国(女王国)南方に狗奴国があり、女王国に従わなかったとあります。
この理由については明確になっていませんが、可能性の一つとして、前前回指摘しましたように、邪馬台国は朝鮮半島由来のツングース系だったことがあります。言い換えますと、彼らはツングース系が嫌いな勢力、ツングース系の女王国に従いたくなかった勢力だったことが推察されます。
それは、民族の違いで、九州南部の狗奴国はアイヌ系等の縄文人が多く、九州北部はツングース系等の弥生人が多く、対立していた可能性があります。このことを古代遺跡数から推察しますと次のとおりです。
まず、文科省の参考資料(2012)の九州各県の縄文・弥生時代遺跡数ですが、下表のとおりです。

この表から、縄文時代遺跡は宮崎、次いで熊本が多く、これらの地域に縄文人すなわちアイヌ系やマレー系が多かったことが推察されます。
次に、弥生時代の発展度合いを観る数値として「弥生時代遺跡数/縄文時代遺跡数の値(比)」を算出し、図にしますと下図のとおりです。

これらのデータから、その値(比)が4.99と大きく、弥生時代が大きく発展したのは福岡だけとなります。その他の県は0.28~1.02です。
福岡が大きい値を示したのは、ツングース系民族が持参した鉄があった効果で、水田稲作が発展し、急速に人口が増えたためと思われます。
次いで、比較的大きい値は大分県の1.02です。大分は縄文時代遺跡が最も少なく、かつ縄文人の多くは中山間地に住んでいたと予想されます。その意味で、稲作適地の平地にツングース系民族は入りやすかったと思われます。
事実、4~5世紀のツングース系王家全盛時代、その支配地には、前方後円墳という巨大古墳が多数建造されましたが、その様子からも、九州東部で前方後円墳は多く、大分はその一つであったと推察されます。
次に、一般に狗奴国と推察されている熊本ですが、その値は0.56で、縄文時代遺跡が宮崎に次いで大きく、縄文人が比較的多かったところと思われます。その意味でツングース系民族は少なく、逆に、縄文系のアイヌ系やマレー系等が多かった地域と思われます。
関連し、前回紹介のように、狗奴(こど)はマレー語でバカという意味です。このことは、南方の狗奴国は北方の邪馬台国等から軽蔑されていたことと関係していたと思われます。
次に投馬国の場所です。
魏志倭人伝に、邪馬台国に次いで大きい国に「投馬国」が出てきますが、場所は、伊都国(福岡)から、「南に水行20日と書いてあります。」投馬国の戸数は5万で、邪馬台国の戸数7万に次ぐ大きさです(上の図参照)。また、続いて「南に水行10日、邪馬台国に至る」とあります。
この「投馬国」と「邪馬台国」の位置関係を、有名な榎一雄の放射説、そして、関連する「魏志倭人伝の行程解釈」を参考に整理しますと、福岡の伊都国から南に水行10日で邪馬台国、水行20日で投馬国に至るとなります。
それらの関係から、邪馬台国を大分としますと、投馬国は宮崎にあることになります。投馬国は弥生時代遺跡数が福岡の次に多い特徴があります。宮崎は平野部が多く、かつ暖かく雨も多く、稲作の適地であり、邪馬台国に次いで人口が多かったと理解できます。
一方、投馬国は鹿児島という説もあります。そこで、古代の遺跡数を遺跡数を基に比較しますと、下図のとおりです。この図では、弥生時代遺跡数も古墳時代遺跡数も明らかに宮崎で多く、この意味で、投馬国は宮崎にあったと観た方が合っています。

まとめますと、邪馬台国を大分とすると、投馬国は宮崎に、狗奴国は熊本あることになります。これらの関係を上トップに示しました。

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