邪馬台国の真相 6.人口(戸数)は10倍に誇張されていた
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レインボー

邪馬台国の真相 6.人口(戸数)は10倍に誇張されていた
魏は、当時、南方の呉国と対立しており、倭国を取り込み、倭国を使い呉国を攻めようとしていた計画があり、このため魏は使いを出し、倭国の状況を調査しました。そして、それらの結果を記したのが魏志倭人伝とも言われています。
その意味で、倭国の実力を見る上で、人口(戸数)は、たいへん重要で、魏志倭人伝にも各国の戸数がいくつか紹介されています。
一方、古代人口推定については、Koyama (1978)が有名で、1978年に発表されてからまだ訂正されていないことから観ますと、この推定はほぼ妥当と判断されている感じがします。これらの情報はWikipedia「近代以前の日本の人口統計」で見ることができます。
そして、このKoyama (1978)の人口推定を基に、「九州地域の弥生時代人口」を推定しますと下図のとおりです。邪馬台国時代を250年頃としますと、約40万人が九州地域の邪馬台国時代の人口と推定されます。

次に各県の人口ですが、関連し、弥生時代遺跡数「文化庁の参考資料(2012)」があります(下表参照)。各県の遺跡数が人口に比例すると仮定し、1遺跡辺り人口を推定しますと、九州地域の遺跡数は合計7893個ですので、1遺跡辺り人口は、40万人/7893=50.7人と推定されます。

次に、これらの数値を用いて、邪馬台国と推定される大分県の人口を推定しますと、大分の県の弥生時代遺跡数は585ですので、当時の大分県だけの人口は、遺跡数×1遺跡当から、585×50.7人=29,660人で、約3万人です。
次に、魏志倭人伝にあります戸数と人口の関係ですが、魏志倭人伝の情報では、邪馬台国の戸数が7万とあります。邪馬台国戸数(7万戸)から邪馬台国1国の人口を計算しますと、1戸辺り人数は約5人と推定されていますので、戸数(7万)×1戸辺り人数(5人)=35万人となります。
大分県全体を邪馬台国の支配地と仮定しますと、大分県(邪馬台国)の当時の人口は3万人と推定されますで、魏志倭人伝の戸数(人口35万人)は、実態の10倍以上という数字になります。
また、人口35万人という地域は、上記の計算のように、九州地域全体の40万人とほぼ同じです。
すなわち、実態の戸数が10倍以上に誇張され報告されていたことになります。
そこで、この誇張の理由について推察しますと、邪馬台国ですが、自国を大きく見せ、魏の支援を得るために人口(戸数)を誇張して魏の使者に報告した感じがします。
しかし、実態は、今回の推察で示されたように、人口(戸数)が10倍以上に誇張されていたことになります。この10倍以上という誇張は、いかにも誇張らしく見えます(笑)。
関連し、当時の状況を、上トップに示しました。

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